アジアあるいは義侠について33:出兵制圧

 何のために?
 「征韓」というときの「征」とは、「軍を送って武力で制圧する」という意味です。西郷は「征韓論者」でなかった」というのは、「即時出兵して制圧すべし」という考えでないのはもちろん、「自分が行って断られるか殺されるかするからそこで堂々出兵制圧すればよい」、というような考えでもなかった。(さらに、説得失敗を自分の死に場所にしたかった、あるいは衝突派兵を不満士族のはけ口にしたかった、といったプチ目的もなく)、西郷は、ただただ「征韓」に絶対反対な平和主義者だった。(そう想いたい。)
 だとするなら、歴史家の論議など知らない無責任な素人として、西郷本人に聞きたいことがあります。 
 (1)自分が行って、やっぱり断られれば、「ああそうですか」と帰って来るつもりだったわけはないでしょう。軍は控えさせておいて、王道に立って「懇々説諭」するならば、必ずや相手を変えさせてみせる、と自信をもっていたのでしょう。
 しかしそれなら、何故、隣国へ行く前に、先ず板垣のところに行かなかったのですか。胸襟を開いて板垣と論議し、「征韓論の非」を「懇々」彼に訴えて、彼の考えを変えさせようとしなかったのですか。王道といいながら何故、同志に対して至心を以てせず、嘘を書いて騙して動かそうというような、孔孟の道に悖るややこしい行動をしたのですか。
 (2)もしも、「とにかく征韓阻止」が目的ならば、何故、大久保らの「棚上げ」案に賛成しなかったのですか。もちろん、(西郷も大久保も死んだ後の歴史をみれば分かるように)大久保らの棚上げ論は当面の策に過ぎず、いずれ侵略併合に一直線です。それでも73年の時点では、いかに説得に自信があっても衝突のリスクがゼロではない談判に出向くより、「当面棚上げ」の方が、当面の期間だけでも「より平穏、平和な」案でしょう。
 決定していた自分の案を取り消されたとか、策略で天皇を使われたとかいう心理が働いたとしても、畏くも天皇が裁可した「棚上げ」策を受け入れず、不満を表明して辞職したのは何故ですか。
 ・・・・・「征韓」の「征」とは「軍を送って武力で制圧する」という意味だと書きました。
 戊辰戦争で江戸に迫った西郷は、「東総督府参謀」という、厳しい名の司令官でした。東軍は、抵抗する幕軍を武力で打ち破って江戸を「服」することなく、圧倒的な軍事力を背景とした西郷の談判で、江戸を無血で「圧」します。
 西郷は、軍事力で[アタック]して要求を通そうという「韓論者」ではなかったとしても、大久保らの案には強い不満を抱き、天皇の裁可にもかかわらず当面[何もしない]案が決まると、辞職してしまいます。
 西郷どん、あなたは、「韓論者」ではなかったとしても、「平和主義者」というよりは、軍事力を背負った「韓論者」だったのではないですか。あまり違いはない気がしますが。