アジアあるいは義侠について34:大政を成す

 寝る前に半分朦朧とした頭で書く日記になってしまい、一体何を書いているのか分からなくなっています。いつもいうように前のものを読み返さないのは、面倒だからだけでなく、読み返すと必ず矛盾に気付いてしまうだろうからで、大体、この西郷の話も、どういう経緯でここに迷い込んだのか。征韓論者だったか否か、永久革命反革命か、王道か覇道か、などなどといったことはどっちでもいいと書いたように思うのですが、それなのに昨日は幼稚で陳腐な質問などしてしまったようで、恥ずかしい話です。
 日記といえば、「18日土曜日、晴。本屋に行く」、でした。たぶんNHKドラマのせいで、ブームですね。いろんな種類の西郷本が並んでいる中、岩波文庫の『遺訓』まで平積みされているのには驚きました。ちょっと手にとってみたものの、買っても読まないことが分かっているので元に戻しましたが。もっとも私の鑑識眼は怪しくて、その日は津村記久子と誰かの本を買ったのですが、帰ってすぐに誰かの方は捨て本と判明しましたので、それなら『遺訓』を買った方がましだったのかもしれません。まあしかし、大事な箇所は立ち読みで覚えて来ましたので、買わなかったのが正解なのですが。
 さて、どんな小さなできごとでも、ひとつの色合い、ひとつの意味だけで全てを尽くすことはできません。ましてや明治維新。いや「維新」というのは後からの命名だそうですので、戊辰の政変とでもいっておきますが、ともかく戊辰に起きた戦争を含む政変ともなれば、一面的に評価することはできません。もちろん幕藩体制が瓦解せずに何もなかった方がよかったなどというのではありませんが、だからといって一方的に褒めすぎることはできないでしょう。
 西郷のことを「永久革命者」とか「永遠の維新者」とかいう人がいますが、革命とか何とかいったって、そもそも易姓革命にいう革命ではなく、共和制を樹立した市民革命でもないのですから、少なくともその意味では、僭称じゃないですか。なんていえば、維新ファンなら、多分こう答えるでしょう。戊辰の政変が鎌倉幕府の滅亡や室町幕府の終焉のようなレベルの政変ではなく、歴史上みない「革命」であったというのは、幕府に「大政を奉還」させた「王政復古」だったからだ、と。共和制になったわけでなく王朝の変更すらなかったが、永く続いた幕藩体制を終わらせ、朝廷から征夷大将軍に委ねられていた「大政」を奉還させた。今後は奉還させた大政を誰かに委ねることなく、古の王政に戻し、天皇が「親政」することになったのだ。そこが違うのであって、だから「革命」とか「維新」というのだ、と。
 なるほど。そうですね。ご高説ありがとうございました。
 で、口を挟んで恐縮なのですが。先日本屋に行きましてね。立ち読みしたのですよ、例の『遺訓』を。
 そしたら、いきなり冒頭に、こうあったんです。
  「廟堂に立ちて大政を成すは天道を行ふものなれば・・・
 これは誰のことをいっているのでしょうか。立ち読みなので怪しいですが、これ、天皇のことではなく、自分のことを自戒していっていると読めたのですが。もしそうだとすると、西郷さんは「大政」を成すらしいですよ。立ち読み記憶ですので、「成す」ではなく「為す」だったかもしれませんが。
 「廟堂に立ちて」というのですから殿上人ですね。徳川幕府はもちろん、室町幕府鎌倉幕府も飛び越えて、畏むも天皇が自ら政を行うという親政に復古するのであって、そこが「革命的」なのだというのなら、やっぱりここは、「大政を成すは」ではなく、せめて「天子の大政を扶くは」とすべきではなかったですかねえ。本の注釈者はわざわざ、「この「大政」は「大政奉還」の「大政」という意味である」と書いていましたよ。