訂正、もしくは「モロッコ」という西部

 「大草原の小さな家」に触れたとき(→ここ)、こんなことをいいました。 
 かつての西部劇には、「インディアン」が(差別的にではあれ)出てくるが、「大草原の小さな家」では、開拓農民を描きながら、彼らによって殺され追い払われた先住民いわゆる「インディアン」が全く描かれていない、と。
 ここでちょっと、訂正しておきます。
 話は突如飛ぶようですが、「モロッコ」という映画があります。1930年、もちろん白黒映画です。
 ちょっと脱線。
 映画史に残る伝説的名場面には、「フレンチ・コネクション」もオマージュした、エイゼンシュタインによるオデッサの大階段をはじめ、いろんな場面がありますが、キャロル・リード「第三の男」のラストシーンも伝説的に有名ですね。並木道の向こうから歩いて来て、待っている男に目もくれずに歩き去るアリダ・ヴァリ・・・・・
 で、「モロッコ」ですが、その冒頭シーンも、それに劣らず、昔から女性の格好よさで知られています。
 夜のカサブランカ港。入港した船のデッキに、鞄を手に颯爽と現れるマレーネ・ディートリッヒ。ひとりの紳士が、「何かお手伝いしましょうか」と声をかけるが、「ありがと、結構です」、と答え、「何かありましたらどうぞ」と紳士が離れると、渡された名刺を、見もしないで海に破り捨てる・・・。実に格好いいシーンです。「私の選ぶ史上名場面」ならNo1はこれですね。などと、つい個人的趣味に走りましたが、個人的趣味でいわせてもらうと、この映画は、名作とされていますが、冒頭シーンのあとは全然いけません。
 え〜っと、何の話でしたか、そうそう。その「モロッコ」が先日テレビで放映されたようで、番組欄によると何かのシリーズらしく。次の日が「ボー・ジェスト」になっていました。
 「モロッコ」は本筋が外人部隊の話で、つまり軍隊なのですが、別に戦闘はしません。それに対して、同じくクーパーが外人部隊の兵士を演じる「ボー・ジェスト」の方は、砂漠の砦を護って、どんどん砂漠の民を撃ち殺します。
 つまり、砂漠の西部劇なんですね。撃っても撃っても草原の彼方から馬に乗ってやってくる不気味な「インディアン」。撃っても撃っても砂漠の彼方から駱駝に乗ってやってくる不気味な「遊牧民」。
 そこで、訂正です。
 私は、西部劇には、「インディアン」が「出てくる」といいましたが、あれは間違いですね。少なくとも不十分な表現でした。
 「劇」や「映画」に「出てくる」ということを、「姿を出す」という意味で使うなら、「インディアン」は出てきます。けれども、それは、例えば、インディー・ジョーンズで「転がる大石」が「出てくる」というような意味と変わりません。つまり、「劇」は、駅馬車に乗り合わせた白人たちとか、砦に立てこもる白人兵士たちによって演じ進められてゆくのであって、「転がる大石」の方は、当然ですが、重要な小道具ではあっても、劇の「悪役」ですらありません。まあ、イシとは違ってイシをもって襲って来るのですから、大石より人喰い鮫といった方がジョウズな比喩になるでしょうが。
 もちろんここでは、昔の西部劇のことをいっているのですが、少なくとも古典的な西部劇で砦を襲う「インディアン」は、いうならば、野営者を襲うオオカミの群のようなものですから、彼らをいくら撃ち殺しても「殺-人」ではありません。同じく、「ボー・ジェスト」で、砦にどんどんやって来ては殺されてゆく、ただ「遊牧民」とだけいわれている人々もまた、同様にオオカミの群に他なりません。だから彼らをいくら撃ちまくっても、白人の主人公は心の痛みなど感じる必要は全くなく、「ボー・ジェストbeau geste」という題名通り、善き行いをする美徳の持ち主であることに揺るぎはないのです。
 もちろん、今の時点で大昔の映画のことをとやかく言っても全く意味ありません。けれども、例えば小説本などの場合には、巻末などに、「原作を尊重して「インディアン」という差別語を使っています」とか何とか、偽善的であろうとポリティカルライトであろうと、一応書いています。今回のテレビ放映などでも、番組の後に、それに似た<言い訳>のテロップが付けられていたのでしょうか。知りませんが。