辺見庸、チェット・ベイカー 

 辺見庸チェット・ベイカーのことを書いていたので立ち読みを始めたのだが、あまりに長いので、『PLAYBOY』を買ってしまった。晩年には注射できる血管がなくなり、頸動脈や陰嚢に注射針をぶっ差していたという話さえ、もしかすると本当だったのかもしれないと思わせるように、彼は生きた。
 「ただ生きる」、ということがどういうことなのかは知らないが、つい人間は、よく生きてしまうのである。たとえ、どうしようもない極悪人であっても、何かしら飢え求めるもの、それ故に極悪と世間がいう何か、につきまとわれ、ひきまわされる。ましてや凡人は、世間に合わせた文字通りのよき何かにとらわれたまま、生涯を了える他ない。
 だが、チェットは、文字通り「ただ生きた」。だから、辺見庸もいうように、「生きてはいなかった」といっても同じである。チェット・ベイカーはひどいジャンキーだったがミュージシャンだった、などとはいえない、例えばチャーリー・パーカーのように。もちろんミュージシャンだったがジャンキーだったともいえない。太宰の「人間失格」の主人公は、誰かから最後に「神様みたいないい子でした」といわれる一方、自分は「人間失格者」だという思いにとりつかれたまま死ぬが、チェットは自分のことをそんな風にもどんな風にも思っているわけでは全くないし、他人から「いい子でした」などといわれるわけでも全くない。人間失格者ですらないのだから、人間ですらないとしかいいようがない。
 彼は何者でもなかった。ただ生きた。つまり、「生きた」といえないように生き、そして死んだのである。
 辺見庸も書いている。「とどのつまり、彼はほんとうに死んだのだろうか。いや、ほんとうに生きていたのか」、と。
 ・・・などと書いたのは、辺見庸の文を読んて、「レッツ・ゲット・ロスト」を思い出したからでもあるのだが、このドキュメント映画のことなどは、またいつか書くこともあるだろう。今日はこれだけ。