少年よ、大志を抱いてどうなるか(3)

 誤解されたかもしれないので、ちょっと補足を。
 「大草原の小さな家」というのは、お茶の間に好評で、たしか何度も再放送されましたし、ファンもいると思います。ということで、「見ないで書かないでください。「インディアン」はちゃんと出ています」、と反論されるかもしれません。また、ほんとに出ていないとしても(と思うのですが)、そのことで、NHK的に良質だったと思われるそのドラマを全否定したわけではありません。ラブストーリーにトイレのシーンがないといって文句をいうのはバカなだけです。いや、それとは違いますが。
 それはそれとして、「アダムが耕しイヴが紡いでいた云々」というのは後生の言い方でしかありませんし、M.ウエーバーに逆らうつもりも全くありませんが、よそ者の目には、清教徒的生活といえば開拓農民の日常が思い浮かべやすい気がします。大草原の小さな家に住む模範的な開拓農民、ローラの一家は、敬虔で控えめで、営々として働きながら恵みに感謝し、木や草、鳥や獣、虫や魚など、生きとし生けるものを愛し慈しむ日々を送っていたでしょう。もし「インディアン」や「ニグロ」と関わることがあった場合には、彼らをも慈しみ、少なくとも慈しむべきだという考えをもっていたことでしょう、多分。多分、満州の少なくとも<模範>移住民は、「五族協和」とか「王道楽土」とかを疑わなかった、あるいは疑うべきではないと思っていたであろうように、<模範的>な西部開拓民たちも、「光を西へ」という志が神の意志に沿っていると疑わないまま、<必要な場合にのみ>バファローを殺し先住民を殺し鉄道を延ばしていったのでしょう。
 といった話は横道なのですが(^_^;)、これでは終わりませんので、エイヤと、元に戻ります。
 さて閑話休題
 農学校の学生たちが、「大志を抱け」という言葉に大きな影響を受けたのは、彼らが既に大志を抱いていたからだろう、という話でした。たとえ彼らの希望は誰かの絶望と引き替えだったにしても、そのことは彼らの意識にはありません。そんな<模範的>な「開拓」の志にみちた青年たちを前にしては、クラークならずとも、彼らの志に重ねて何事かをいうだけで、強い感銘を与えられたことでしょう。
 ところで、「何かをせよ」という命令やアドヴァイスは、普通、「何かをしないで」という前置きを、言外に含んでいます。「(あんたばかり歌ってないで)私にもマイク貸してよ」とか、「(あんなやつなんかとつき合わないで)もっといいカレシ探した方がいいよ」とか。そういえば、「(つまらぬブログ更新なんかしてないで)仕事しろよ」(^_^;)、というのもありますね。孤狸庵閑話、こりゃいかんわ。
 そんなアドヴァイスは忘れて(^_^;)、では、「大志を抱け」の場合はどうでしょうか。「(平凡な人生に満足しないで)大志を抱け」、とでもなりますか。多分、そんなところでしょう。