負けては困るのか

 以前、親しくなった八百屋さんから、商売のコツを聞いたことがあります。「要は、お得意さんの冷蔵庫の中でどれだけ腐らせるか、ということなんですよ」。もちろんそれは、酒席ゆえについ漏らしてしまった本音であって、普段の彼は、「お客様本意」がモットーつまり建前で、顧客の信用も厚く、堅実な商いをしていました。というように、私たちは誰しも、本音を隠し抑圧しながら、それでいてまた、建前生活のどこかで本音を漏らしたりしながら、日々の憂き世を生きています。年輩の方々が縄のれんで、若い方々がネットで、不遇な身の本音をぶちまけたりするのも、あるいはまた本音主義を看板にする歌手や芸人がうけたりするのも、「憂き世の憂さの捨て所」ということでしょう。
 ただし、例えば本音芸人の本音もまた「芸」つまりその人の建前だったりするように、本音と建前そのものも単純な二重構造ではありません。とかく世の中は、なかなか簡単なものではないわけです。
 前置きが長くなってしまいましたが、例のスパコンを含む科学技術予算の問題で、いよいよノーベル賞受賞者らまでもが出てこられて、事業仕分けを強い口調で批判されたようですね。先生方のいい分は、おそらくもっともな正論なのでしょう。政府も予算を復活するような気配です。
 とはいえ私は、このような問題について真面目に議論をする能力もなく、また柄でもありません。ただひとつだけ、他の人はいわないであろうことで、ちょっと気になったことがあります。
 今日の新聞の一面に写真が出ていました。何かそういう会合があったらしく、ノーベル賞受賞者の先生方が壇上に並んでいる写真です。何しろ佐藤元首相も受賞されたあのノーベル賞なのですから、受賞された先生方が壇上にずらーっと並んだ姿は壮観です。で、そういうエラい先生方に対して甚だ恐縮なのですが、先生方の表情が、一人残らず怖いのです。というといい過ぎですが、何というか非常に固い表情で怒っておられる様子なのです。
 もちろん、それは当然です。そんなエライ先生方が急遽集まられたほど、それだけせっぱ詰まった問題なのでしょう。実際、今回のことについては、他にも多くの高名な科学者の方々が、あちこちで、怒って会見をされたり声明を発表されたりしておられるようで、記事でも、例えばこんな風に書かれています。「各声明には「取り返しのつかない事態」「国家存亡にかかわる」などと強調する表現が目立つ」。またある大学の学長は、「「明確な国家戦略もなく、効率というキーワードだけで一律にカットしている。赤字が解消しても日本は死んでしまう」と痛烈に批判した」、など。
 で、そんな「国家存亡」の危機に、甚だもって申しわけないことなのですが、それを読んで、フト浮かんだのが、この「強烈」「痛烈」な怒りは本気なのだろうか建前なのだろうか、という疑問なのでした。もちろんそれは、へそ曲がり根性が発する誤った疑問であって、先生方の怒りは、二重構造などのない、「マジ」な怒りに違いありません。学界を代表する者として怒ってみせなければならない場面でもありましょうが、同時に心底感じている怒りをぶちまけたい場面でもあるわけで、その両方の間に齟齬はないでしょう。(続く)