安楽椅子の知的道楽(2)

 最近はソバージュという髪型をほとんど見かけません。ことばの意味とは逆で、多分あれは結構手がかかったのではないでしょうか。70年代にフランスの美容師が考案して流行させたということですが、それもまた、安楽椅子の先生がソバージュ、つまり野生のスミレをリスペクトして大変有名になったことに便乗したのかどうかは知りません。
 そういえば、いつ頃からか、従来のいい方は差別語だということで、新聞などでも、未開発とか低開発とかいうことばが使われるようになったのですが、それはそれで、「先進」開発国に対して開発が「遅れている」国ということであり、「追いつきたい」ということであります。しかし、「進んでいる」社会や文化は偉いのかというとそんなことはないわけで、彼らもまた立派に完結した社会であり文化なんだという見方もできます。完結した、というのは、社会や文化は、未開だ進んだ遅れたというように歴史的時間的に規定されるべきものではないという意味であって、いい換えると、社会や文化は歴史抜きに語れるのだということです。19世紀は歴史の時代だといわれ、それが20世紀の半ばまで続くのですが、ここで様子が違って、むしろ、歴史については語るな、ということになるわけです。
 ところで、昨日の新聞にも出ていましたが、フランスでは、移民労働者による「占拠」や「暴動」などが続いているそうですね。彼らがいいように酷使されまた今いいように追い出されようとしているのは、彼らの出身国がフランスの植民地であったという歴史を背負っていればこそです。けれども、彼らがもし「何とかしたい」と思っているとしても、そういうことは詮無いことです。何とかしたいと思って何とかできることではありませんし、だからそれは傲慢な思いです。
 ブルゴーニュの広大な別荘に悠々と自適されていた「先生」もまた、確か移民の末裔であられたと思いますが、どのようにすれば、歴史について語らず関与せずに、そういう境遇をえることができたのでしょうか。いや別荘について云々しようという卑しい意味ではありません。悠々自適というその精神的境遇のことですが。
 おそらくそれは、いうならばラインを引き直したことによるのではないかと思われます。ご承知のように、撤去されたのは文明と野生の間のラインであって、そのことで、野生がリスペクトされました。今や野生のスミレは、野生の猿や魚などと同様に、そしてまた文明の猿と同様に、自分の生態系を決して知ることがなく、ただそれを生きるのみなのだということが明らかになりました。
 そのことは、だが、新たなラインが引かれたことを意味します。自らの姿を決して知ることができず、何とかしようもなく思いもしない、いい換えれば主体と呼ばれることの決してできない植物や魚やそして文明ないし野生の猿たちなどなど。それら全ての前にラインを引いて、先生ただひとりが、全ての姿を<知りうる主体>となったのでした。まことに、西洋的知性の最高峰という他ありません。改めてご冥福をお祈りいたします。