『提督回想録』(抄訳の2)

 (承前)「ところで、白が違うというお話でしたが・・・」。「ああ、そうでしたね。ともかく、お国の、いや西欧の白は、appear、外に出ようとする白、輝く白です。ところが、日本の白は、外に出て輝くのではなく、いわば内に沈むのです。舞妓の白も、一方的なアピールではありません。浮世絵をご覧になったことがあるでしょう。美人画で描かれている女たちを思い浮かべてください。お国の女性と違って、胸でも眼でも口でも、全てが薄く,細く,小さく,描かれます。まるではかなく消えてゆこうとしているような風情です。白塗りの肌も同じです。夜の闇に消え残る白い顔と手、それが芸者の白化粧なんです。この国では、死者が白い着物を着ることはご存知ですよね」。
 「消えてゆくということは」とスミス氏がいった。「遂に透明になる、ということなのですか」。
 「いえいえ、そうではありません。西洋の文化こそ、透明な光の文化なのです。あなたは、第一回世界博覧会のシンボルが、クリスタル・パレス、ガラスの宮殿だったことをご存知でしょう。西洋近代文明とは、透明な知性を通して世界を取り込むことであり、そして、世界をあまねくenlightenment啓蒙の透明な光で照らそうという情熱なのです。迷惑なことにね(笑)。
 西洋のクリスタル、水晶ガラスや、またダイヤモンドやエメラルドといった宝石は、透明故に、光を透しあるいは反射して輝きます。でも東洋の玉(gyoku) や白磁は、光を透さず反射もしません。いわば光を吸収するのです。女性の肌も同じですよ。「温泉水滑かにして凝脂を洗う」のは白磁の肌です。しかしね。私は、日本の白は、白磁でもないと思います。
 どういえばいいでしょうか。白磁は、外にアピールしませんが、それは自らに完結しているからです。李朝白磁を悲哀だなどというのは差別的な俗説ですよ。大陸や半島の白は、堂々としています。それに対して、日本の白は、かげのある、くすんだ白です。ちなみに、「かげ」も「くすむ」も、やまとことばです。陰影といっても陽や実体との二元論ではなく、くすみも dark や dull ではありません。いうならば、あくまでも白いまま、はかなく闇に消えゆく白なのです。
 幼い舞妓の肉体が狭い座敷の夜の闇に消えてゆこうとする刹那、暗い灯火にふと残る白い顔、かすかに揺れる簪と螺鈿の口紅。ああ、あなた方は、幸運とばかりに眺めておられたが、見てはいけなかったのです。黒子のように、見えない振りをすべきだったのです」。
 小太り氏は、何だか自分の言葉に陶酔しているように見えた。スミス氏がいった。「なるほど。お座敷の外は舞台裏だということですね。ですが、先日、領事と共にこちらの市長にお目にかかった時、彼はいっておられましたよ。これからは、Maiko-san に大いに昼間歩いてもらって、観光宣伝をしてもらいたいと」。小太り氏は、皮肉さの混じった沈鬱な表情を浮かべていった。「そう、確かにそれが、時代というものです。これからは、見たくないものを、いくつもみなければならないことでしょう」。
 ここで白状するが、このあたりの会話は、スミス氏から頂いて保存してあった回想エッセイ(T.Smith "On the White of Japan" The Far East Review,Vol.22,1906)によって書いている。当時の私には、彼らの話の全てが分かったわけではない。ただ、その時の小太り氏(その時は知らなかったが、スミス氏によれば J.Taniという名前だった)の沈んだ表情は、今もはっきりと覚えている。
 私は、彼を励ましたくなった。「あの〜、失礼ですが、でも自然は変わらないのではないでしょうか」。若造が何をいい出すのかという顔で、二人が私を見た。(続く)