1897年-14:高等中学校

 ところが、「金色夜叉」の書き出しはこうである。
 「未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに・・・」。
 美文だろうが、古めかしい。
 このような擬古文体には、鹿鳴館的開化時代への反撥という意味もあったのだろうが、多くの評者から指摘されているように、古いのは文体だけではなかった。
 そこで、また少し横道に入る。
 主人公の間(はざま)貫一は、生い立ちの故で、24,5才だが「高等中学校」の学生である。
 大体、高等中学校とは何か。
 その説明をするために、同じく高等中学校時代の漱石の年譜を借りよう。漱石夏目金之助は、まだ東京ではない江戸(現在の早稲田大学の近く)で、まだ明治ではない慶応3(1967)年に生まれた最後の江戸っ子であって、翌年明治になっているから、年齢と明治年が一致するので分かりやすい。
 さて、前史は省略して1877(明治10)年に東京大学ができる。だが、当時の教官の殆どは超高給で雇われたお雇い外国人で、教科書も講義も試験も、全て本国と同じであったから、大学に入るには、ともかくまず高度な英語やドイツ語をマスターしないと話にならず、そこで作られたのが大学予備門であった。金之助は、先ず英語学校で学んでから、17才で大学予備門予科に入学している。
 さて、なるべく遡らないことにしたいのだが、西南戦争や困民党事件などに象徴される体制危機を鎮圧し、14年クーデターで猶予期間を確保した政府は、約束した国会開設以後に備えて、揺るぎない体制の構築と既成事実化に取り組むが、そのようにして姿を現すべき国家の称号が、「大日本帝国」であった。だが、国家体制の構築には、官僚機構の担い手を中心として体制各分野の中枢に据えるべき人材を養成することが不可欠である。こうして、1889年の「大日本帝国憲法発布に先だつ86(明治19)年に、東京大学を中心に他の在京官立諸学校を全て併合した、唯一の官立総合大学が作られた。もちろん、法律の名称は「帝国大学令」で、大学の名称は「帝国大学」であった。
 それに伴い、予備教育は、全国5学区それぞれに置かれる「高等中学校」が担当することになった。こうして、金之助の在籍する学校は、同年4月から、「第一高等中学校」と改称される。ただし彼はその年落第し、21才で予科から本科へと進む。そして、90年、23才で高等中学校を卒業して、帝国大学文科大学英文科に入学したのであった。