1897年-24:ガス糸織の着物

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 軍服や学生服だけでなく洋服紳士や洋服職業が増えたとはいえ、もちろん女性を含む大多数の人々はなお着物(和服)だし、洋服で外出する男でも、家では当然和服であった。だが、その和服もまた、昔と同じではない。
 何度か言及したように、この年、後の哲学者三木清兵庫県の現龍野市に生まれたのだが、やはり後哲学者になる和辻哲郎も、同じ県の現姫路市で、少し前の1889年に生まれている。ということで、三木が生まれた年は和辻の尋常小学校時代になるのだが、ふり返って、彼は書いている。
 「産業革命は〜わたしの村などでは、明治二十年代の末から三十年代のはじめにかけて、台風のように吹きぬけていったかと思う。尋常小学のころには手織木綿のかすりの着物をきていたのが、高等小学校のころにはすでに紡績工場でできたガス糸織の着物に変わっていた。それに伴って糸を紡ぎ、糸を染め、染めた糸を合わせて機にかけて織るという、女たちの楽しそうな活動が、急に見られなくなってしまった」。「日清戦争前後の産業革命は、実際に村の姿を変えて行ったのである」。「これは村の日々の活動にとっては非常に大きい変化であって、多分明治維新の際にもこれほどの変化はなかったのではないかと思われる」。和辻哲郎『自叙伝の試み』)
 「ガス糸織」というのは、綿糸のケバをガスの炎で処理し、滑らかで光沢のある糸にして織った綿織物、つまり、手織りではなく機械織の綿布である。
 村の人々にとって、実業の時代の到来、つまり産業革命とは、村の名士が山高帽に洋服を着たり洋服職業の人々がぼちぼち出現したりしただけでなく、そこいらの子供たちもまた、誰もが機械織の綿の着物を着るようになって、おかげで村の女たちの手織り木綿が急速に消えていったことだった。