1897年-23:山高帽

monduhr2007-04-11

 『金色夜叉』の道草が過ぎたが、とにかくそんなわけで、「活動紙幣」が世の中を動かす「実業の時代」になりつつあった。
 ただ、では「実業の時代」とはどういうことか、ということになると、結構面倒なことになる。例えばこの年1897(明治30)年、動力使用の工場が約3000、従業員数は約44万人と、日清戦争前に比べていずれも数倍に急増していることなどをもって、いわゆる「産業革命」ということばが使われることも多い。だが、そういった大通りを俯瞰する話は、専門の経済史の本にまかせて、ここでもなるべく横道を歩いてみよう。
 例えば、昨日の挿絵を見て頂きたい。山高帽にステッキに下駄。何ともいえぬ格好だが、ご本人は、シガーをふかして、すっかり洋風紳士のつもりであろう。家では着物でだらしない苦沙弥先生も、職場である学校へ行ったり、泥棒に入られた件で警察署へ行ったりする時には、洋服である。(→昨日の末尾に紹介したサイト)迷亭の伯父は老漢学者で、外出には鉄扇をもって出るような人物なのだが、その老人までもが突然手紙で、おそらく日露戦争の祝捷会に出席するため、山高帽とフロックコートを至急買って送れと迷亭にいって来る。地方名士の会合でも、公式(?)服装は洋服になって来たのであったろう。
 「二十七八年戦役日清戦争のころから、いろいろのことが変って来たらしい。てぢかなことをいふと、小学の先生や村役場の役員などが、洋服をきるようになった。〜父もセビロをきて何かの会合に出かけたのを、見たおぼえがある。〜三十年前後からのことであったらうか。〜いはゆる資本主義経済の形がそろそろできかけて来た時代なので、その機構がぼつぼつ農村にもひろがって来たのである。」津田左右吉『おもひだすまま』)
 旧制高校生の学ランだけでなく、都会はもちろん農村でも、山高帽に洋服が名士のハレ着となり、駅長や巡査をはじめ、職業洋服の姿が日常的になってゆく。横道風にいえば、「農村にもひろがって来た」「資本主義の経済の形」のひとつは、洋服であった。