番外編、寺山修司「路地」覗き魔事件

 「覗き魔時代」という題を使ったので思い出しましたが、そういえば昔、寺山修司「覗き魔事件」というのがありましたね。但し、独断と偏見、ウソから始まりますので、以下は虚言口調にいたします。
 ・・・・・「私の嫌いなものは、太宰と青森だ」、と寺山は書いている。例の訛りにもかかわらず、寺山の故郷は青森ではない。帰郷のベクトルを捨てた彼には、家と故郷からの、そして国からの出離ベクトルだけがある。誰か故郷を想わざる祖国はありや。彼にとって、青森は「わが故郷」でないように、東京も「わが住む街」ではない。大東京の雑踏も田園に死す恐山の幽冥にパタンクルリと通底している。ましてや建売路地はそのまま見世物小屋界隈に他ならず、ある年彼は、過ぎ無み区は見知らぬ通りの見知らぬ家を「ノック」したのであった。だが劇的時間は見事逮捕シーンで幕を引かれ、そして2年後、懲りない彼は再び、他ならぬ「路地」という小劇を書こうとする。「路地」の静謐は震駭されることで劇的時間を紡ぎ始める。その筈であったが、次幕もあらばこそ、またもお馴染み逮捕シーンと相なったお粗末。無言通報して窓の隙間から顛末を<覗き見>しつつ「サンダル浮浪者風で風呂場を覗いていた」という出歯亀物語をたちまち創り出した大衆劇場の脚本力は、流石といえば流石である。「クリーニング特価」は重宝、ピンクビラもOKだが、「自衛隊海外派兵反対」は通報逮捕させる団地ing官舎と同質の「路地」には、もはや、「何覗してるんでい」と声を掛けて答えによっては「太てぇ野郎だ」と袋だたきにしようというほどの見所ある役者はいる筈もない。不遜にも寺山には、なお市街劇演出家だという甘さがあった。いまや監視通報職質逮捕という無言の日常装置が完全配備され、まさに公権力に護られる「公空間」と化した路地。思えば、「公道だ、何が悪い」というストリートビューを引き寄せたのは「路地」であったのか。