番外の2:覗きたいか

 一週間も乗らなければバスの窓から見える東京はたちまち変わってしまう。「いや、ごめんください」といって老人が降りて行ったあと、どうしてこんな店がまだ残っているのか、「鋸目立て屋」が見え、「油揚屋」が見える。「切った豆腐の列、油を煮立てた平釜、そこへ入れて揚げて、一枚づつひっくり返して、頃合いを見はからって大きな平笊にあげ、〜さましてから別の平笊に並べる。はじめの平笊までを髭の伸びた老人がやっている。さましたのを並べるのは孫娘のようなのがやっている」。
 そのような、昭和40年代の中野重治の描写に触れて、20年ほどあとで江藤淳が書いている。「40年のあいだに、東京はにわかに不定型な地図のない都市に変貌し、区域と地形によって決定されていた都市空間は、人工的建造物の濫入によって、いかようにも可変な空間に変貌した。そして、この間に、言葉もまた〜文学的な時空間とは無縁な言葉に変質させられて行った」。
 昭和時代の終わりに書いたものなので、「40年」というのは、この際「60年」と置き換えてもよい。いや、もうその置き換えすらできないほどの時代になっている。
 路に向けて誇らしげに開け放った土間も、見られることなど気にせず一心に仕事する老職人もとっくに消えた。いま、覗かれることを拒否して窓を閉じた建売箱列の傍らでまれに出会うのは、スーパー銭湯でジェットバスに所在なげに浸かっているのを見かける老人である。もしもそういう路をなお「路地」と自称したいとして、覗くに値する何があるというのか。否、それもまた護りたい誇りではあるのだろう。「都市部」の一角になにがしかの箱を確保しているというそのことが。
 (念のため付記しておきますが、私は、かつての路地共同体への共感も従って変貌への感慨ももってはいません。しかるべく定住すると通報したくなる尤もな気持ちも含め、失礼ながら一定の忖度をしたにすぎません。ともあれ、流れてストリートビューから遠くに来てしまったこの話は、もう終わります。)