私たちの暴力

 韓国で、21人殺しという大量殺人事件が起こり、犯人が逮捕されたという。といっても、いわゆる「理由なき」「無差別」殺人ではない。慈善団体の者と偽って金持ちの家を訪れ、対応が冷たい家を選別して、殺したのだそうである。「腐るほど金を持っていながら貧しい者を傍観している者は、死罪に値する」、というのが彼の言い分だとのこと。
 このニュースには、まだいろいろ問題や展開があるようだが、とりあえず、私たちが向かっているのは、こういう人物が、個人でも集団でも、今後様々な形で現れるような社会であるということを確認しておく必要がある。私たちは、格差拡大<を伴う>、というよりむしろ格差拡大<による>活性化を選択している。それでいて、踏み台にされた社会層には羊しかいないと期待するのは、余りにも虫のよい話である。
 とはいえ実は、そのことは、誰もが予感していることである。こうして、ますます「治安社会」化が進められてゆく。一昔前、街頭監視カメラが現れた際には、監視される「不安」が話題になったものだが、いまや店内、街頭、個人住宅・・至るところに設置されたカメラは、多少の「安心」装置と受け止められている。街頭では、ちょっとしたデモでもたちまち取り囲んで「健全な市民」から隔離する警官隊の壁。家に帰れば、入り口でロックされたマンション、あるいは塀で囲まれ警備会社への通報装置をつけた邸宅。おそらく今後は、アメリカのように、街全体に塀を巡らせ、入り口に厳しいゲートを設けた高級住宅街が作られてゆくだろう。(→参照
 だが、それだけではない。
 「健全な」市民の<安全と安心>への不安とは、自らの「健全な」生活が、人々を踏みつけにして成り立っていることについての不安である。そのような不安を通奏低音にして、健全な市民は、塀や警報装置や監視カメラで自らの<安全と安心>を護ると同時に、イザという時には治安権力の暴力装置を頼りにしている。だから、自らの暴力の委任装置である治安権力が機能しない領域や、あるいは機能しない事態が生じた場合には、むき出しの暴力が現出する。かつて、「不逞鮮人」への徹底弾圧という委任装置が破綻するという<予感>だけで、「健全な市民」たちは、手に手に得物を持って街頭に出、踏みつけにしている人々の反抗への不安から、数千人の朝鮮人を虐殺したのであった。
 いまも、私たちの暴力や暴力可能性は見えないまま、たとえば21人殺しが大きなニュースとしてとりあげられる。・・・怖いわねえ。