薄幸なる舞姫

 世の中の「大事は前に横りて洵に危急存亡の梅雨明けなるに」、こんなどうでもよいことを書いていて気が引けますが、ともかく舞姫のことでした。
 しかし結局、あのお話は大した裏表があるわけでなく、一言でいってしまえば、下心の交錯悲劇に何重にも重ねられたイイワケ話です。
 老母は、最初から、金蔓から金を引き出そうとの下心が見え見えですが、亡父も、いいたくありませんがエリス嬢も、少なくとも初めは、下心なきにしもあらずです。とびきり美貌で性格もよい仕立屋の娘が、洗濯女とまではいわずとも、お針子や売り子やお屋敷の侍女や下女の口さえも何もなく、ただただ、大方は「賤しき限りなる業」への見習いのような「恥づかしき業」に就く他なかったのかどうか。しかも踊ってるだけでは、「薄き給金」で「緊しく使はれ」る「当世の奴隷」とまでいわれる職です。自らの美貌を知らぬ筈のない少女が、いずれ「色を舞姫の群に漁する」金持ちのパトロンがつき、といった将来に、貧苦からの脱出の下心を抱いていたとしても、誰にも責められません。
 一方、ジコチュー氏の方はといえば、若い独身男として当然ながら、日頃から「赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纏ひ、珈琲店(カツフエエ)に坐して客を延く女を見ては、往きてこれに就かん勇気なく」などと、下心をもって街を徘徊したりしている男です。
 勇気をもって声をかけた美少女から、金持ち紳士だと一瞬にして見て取られ、「乳の如き色」が「燈火に映じて微紅を潮した」る顔をあげて、「我を救ひ玉へ、君」と「見上げたる目には、人に否とはいはせぬ媚態あり」、というのですからたまりません。美少女の媚態にイチコロとなるは奈何せんです。
 そして少女は、助けてもらった「恩を謝せんとて」一度尋ねて行くのは当然としても、そのままズルズルと男の部屋に「名花」を咲かせるようになります。
 というように、この出会いは最初から単純な恋愛劇ではなく下心の交錯劇であればこそ、ジコチュー氏は「嗚呼、何等の悪因ぞ」、といったのでしょう。ともかくこうして、「少女との交り漸く繁く」なってゆきます。舞姫ならぬ舞妓なら、三味線を手に、ハ、ツンシャン、「繁く通うは互いの毒と承知しながら逢いとうて〜」、てな情景でしょうか。たまりませんな。
 ま、しかし、この後少女の方は、純真一途です。(続く)