痛快小説「舞姫」

 (承前)前回のおまけ→「繁く逢ふのは」、うめ吉姐さんです。
 さて、主人公豊太郎氏の行動は、高橋先生の学生さんの評通り、どうしようもなくジコチュー不誠実ですが、何しろ文豪ご本人のアバターですから、言葉巧みにイイワケに次ぐイイワケで、全てが責任転嫁されてゆきます。
 「清白」だったというのなら何故、別離の危機が迫った時にこそ不埒な所行に及んだりしたのかと「誹る人もあるべけれど」・・・実は、「別離を悲みて伏し沈みたる」エリスの「美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ」。つまり、少女のせいで心神喪失になっての所行だから責任はない、と。
 しかし、幸い新聞社に就職できて、美少女とひとつ屋根の下で暮らせるようになったのですから、何もいうことはない筈です。世界の中心ベルリンで美少女妻に更なる愛を誓い、愛の結晶を身籠ったと聞いてはこの上なく喜び、いたわり、さらに甘い愛の巣造りにいそしむ、というのが「現代では」ドラマの流れでしょう。その後不治の病になったりするのは別の話です。
 ところがジコチュー氏、「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年」、「大臣は見たくもなし」、といっていた舌も乾かぬ間に、お呼びがかかると、友人に会いに行くのだと見え透いたイイワケをして、イソイソと出掛け、ヘラヘラと大臣に近づきます。その上、その友人から、少女など捨てろといわれると、「姑く友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき」って、オイオイ、「貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛」といっていた言葉など民主党の公約同然。「我をば努な棄て玉ひそ」と切々と毎日手紙で訴えるいじらしい少女妻をアッサリ捨てます。もちろんこんな大事でも、「余は〜友に対して否とはえ対へぬが常なり」と、イイワケ、責任転嫁。
 そして、大臣から「ロシアに付いて来るか」と問われると、「いかで命に従はざらむ」、と歯の浮くような返事をしながら、それもまた、実は「余は〜卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり」と、あきれたイイワケ、責任転嫁。
 で、予想通り、帰国立身の話が来て、「君の友人からは係累などいないと聞いているが」といわれると、友人をウソつきにはできないからというイイワケ、責任転嫁で、「ややこしいのはいません。帰国立身の件は、承はり侍り」、と答えます。
 しかし、「帰りてエリスに何とかいはん」。愛する人の子の出産を夢のようだと楽しみにしているのですから、当たり前です。
 ところが、幸い風邪と心痛で寝こみ、自分からすぐに告白しなくてもよくなった上に、これまた幸い、友人が来て「隠したる顛末」を告げてくれます。これで責任転嫁ができるというものです。可哀想に、真実を知ったエリスは「精神の作用は殆全く廃して、その痴なること赤児の如くなり」、医者に「治癒の見込なし」といわれて「癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず」という、実に哀れな状態に陥ります。
 一体、彼女をこのようにしたのは、誰でしょうか。ジコチュー氏はいいます。帰国話持ってきたのは友人だ。別れよといったのも友人だ。自分が隠していた真実を彼女に告げて、哀れエリスを発症させたのも友人だ。責任は友人にある。友人こそが彼女を「精神的に殺しゝなり」と。責任転嫁ここに極まり、もはや何をかいわんや、です。で、ジコチュー氏は、「生ける屍」となったエリスの母親に、「微なる生計を営むに足るほどの資本」だけを与え、「あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおき」、あっさり帰国してしまいます。
 そして、有名な締めくくりを書くわけです。相沢謙吉のような「良友」は世にまたといない。ただ、ほんの一点「彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」。最後まで、全く他人のセイです。
 それにしてもこんな小説が、なぜ名作になったのでしょうか。細かいことはどうでもいいとして、高橋先生の学生から、失笑とともに「ジコチュー」のひとことで片付けられてしまうような人非人小説が、何故、名作として迎えられ、作家の文名を高めたのでしょうか。鴎外論とか舞姫論とかの類は1冊も読んだことがありませんので、評論家諸氏がどういってるのか知りませんが、おそらく答えは簡単です。
 可憐で健気で一途な美少女を不幸のどん底に落として逃げるジコチュー結末にもかかわらず何故この小説がウケたのか、ではありません。不幸のどん底に落とすような小説だった「からこそ」ウケたのです。つまりこれは、「痛快小説」なんですね。(続く)