舞妓と舞姫

 自分としてはそちらの方こそを名乗りたいと思っていても、世間では「ボランティア」とか「アマチュア」とか「趣味」とかいわれ、「本業」としては認めてもらえない。そういった場合の決め手となるのは、いうまでもなく<稼ぎ>です。
 そういうことでいえば、例えば、京都で有名なお寺の「本業」は観光業だといわれそうですが、ああいうのは特例で、本業はあくまで由緒ある宗教施設です。寺院が昔からの由緒や由来をアピールするのは、税金免除のためだけではなく、観光よりも宗教の方が誇れるからであり、しかも、観光施設ではなく宗教施設だということが、かえって観光業のためにもなるという、なかなかうまい仕組みになっています。
 うまい仕組みという点では、「舞妓」さんもそうでしょうか。ただしこちらは、由緒来歴をアピールするお寺さんとは正反対に、由緒来歴を隠すのですが。
 先に見た通り、朝鮮や地方ではイザ知らず、東京や京都の料亭や待合に出入りするクラスの芸者や芸妓は、「現代では」「売春を行うことはない」そうですが、ということは、「一昔前は」そうではなかったということです。というより、遊興の世界では芸と性は不可分で、芸妓と娼妓を分けて一方を卑しむのは、「現代」の歪んだ視線でしょう。ところが、舞妓さんの場合、「娼」関係の由緒は、「現代では」観光に役立たないどころか足を引っ張りかねません。そこで、見習いの舞妓から旦那ができて「水揚げ」をしてもらい髪を結い変え、芸娼ともに名のある芸妓になってゆくのが一番出世だった筈の由緒由来は隠されます。
 そんなことはどうでもよいのですが、鴎外が「舞妓」とも「踊子」ともせずに「舞姫」としたのもまた、エリスの職業の半面を隠そうとしたからでしょう。
 主人公は舞姫との交際を知られて免職されるのですが、「清白」だと否定してもエリスとの交際を「色を舞姫の群に漁するもの」とされてしまったのは、舞妓という仕事が、「賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なり」というものだったからでしょう。そしてまた、少女エリスの舞そのものを、鴎外が「この恥づかしき業」といのは、かつての舞妓が水揚げ前の見習いであったように、「色を漁る」男の前で舞う舞姫もまた、普通は「賤しき限りなる業」への見習いのようなものだったからでしょう。
 「はかなきは舞姫の身の上なり」。大体この仕事、「賤しき限りなる業」に堕ちぬ限りは、「緊しく使はれ」「薄き給金」で、劇場第2位の名花となっても、父親の葬式ひとつ出す金も稼げないのです。いずれ旦那がつかなくては、おそらく割に合いません。
 さて、お話に戻ります。
 ジコチュー氏は、省命でベルリンに来たのですが、3年ばかりが過ぎ、自らの将来に多少疑問を持ったところで、ある夕暮れ、街角で薄幸の美少女に出会います。それが舞妓いや舞姫エリーゼで、彼女は、父親の葬式代がなくて泣いているのでした。
 「年は十六七なるべし。その面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。」とにかく、飛びきりの美少女です。
 で、氏は少女に声を掛けるのですが、そこで早速、イイワケです。「覚えず側に倚」ったのはナンパではなく「憐憫の情」に負けたからだ、と。けれども、少女がいかに哀れだったかを描写してそういうのなら分かりますが、いかに可憐美人だったかをさんざん描写した上ですから、覚えず湧いたのは別の「情」だろうと勘ぐられても仕方ないでしょう。その点、身体は正直で、訳を打ち明けられても、眼はジロジロと「うつむきたる少女の顫ふ項にのみ注がれたり」です。実は後に、情交に及んだ時、「余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬ」と、最初から憐憫とは別の「情」があったことを告白します。いや、別ではなく、三四郎か誰かがいってますよね。「可哀想だたぁ惚れたって事よ」。(続く)