服を褒める

 (承前)私たち日本人が馬鹿にしつつ怖れる国、近くにありながら外交関係もない国、そんな国で、「舞妓」という小説が書かれたとすればどうでしょうか。当時入港できた交易船の高級船員として上陸入国した主人公の軍人が、京都で美しい舞妓から「助けてください」とすがりつかれて金をやり、愛人にして身籠もらせたところで、帰国の話があって、打ち明けもせず捨てて帰ることに決め、哀れ日本少女が廃人となるも構わず、祖国に尽くさんと出航帰国する。そんなあらすじの小説は、かの国で痛快小説として読まれるでしょうか。それとも、そんな小説を喜ぶほど落ちぶれてはいないと捨てられるでしょうか。
 「舞姫」出版は1890年で鴎外が帰国したのは88年ですから、維新から僅か20年、断髪や廃刀やお歯黒をやめてからだと、まだほんの数年にしかなりません。無理矢理の殖産興業富国強兵で、近隣は脱亜で切り捨て自分は「入欧」しようと、何でもかでも欧米列強のまねをし、文部大臣が日本語をやめて英語にしないとだめでしょうかといって西欧の言語学者にたしなめられるという程こちらは必死でも、あちらは不平等条約の改正も渋っているのは、どうせ黄色い猿の国程度に思ってやがんだろう此畜生。鹿鳴館の夜会でも短躯短足の猿芝居だなどと笑ってやがんだろう篦棒奴。そんな時代に、可憐な西欧美少女がニッポン男子に取りすがり、どうか捨てないでといじらしくも懇願するのを蹴飛ばして、癲狂院にでも入りやがれと放置して帰るとは、ニッポン男児の愉快痛快物語でなくて何でしょうか。
 もちろん、文豪の筆巧みな隠蔽で、痛快小説などとはとんでもない、評論家諸氏も荷担して、近代的何とかの何とかだなどと、舞姫は「名作」に仕立て上げられております。高橋先生の学生君のような素直な「現代バカ」にはその手は効かず、「ジコチュー」とか「ひどくね?」とか、王様の裸を見抜かれてしまったのでしょうが、評論家諸氏は、単純バカではないばっかりに、鴎外ほどの手練れにかかればイチコロで、見えない服を褒めるのでしょう。
 などといっては失礼なので取り消しますが、責任転嫁イイワケ自己弁護の名手、それもただの名手ではなく、「彼ほど弁解せず責任を引き受けた者はいない」と評論家諸氏に言わしめる筆力をもった超一流名手は、人生の最後には、遂に人生まるごとまでをも、自己弁護することに成功します。すなわち、墓碑銘を「森林太郎」だけにしてほしい、単なる石見の人としてだけ死にたいと友人に遺言して、「流石に鴎外、体制エリートとしての権威も名声も、彼にとっては不本意な仮の姿だった」と、名声とみに高く・・・(続く)