三木清:獄死前後7

 どういうことか。
 繰り返すが、9月30日の時点では、新聞(朝日)は、たった8行だけの小さい死亡記事を、しかも元官僚の記事の後に載せただけであった。
 ところが、いきさつは後回しにするが、僅か5日後の10月4日に、GHQから治安維持法の廃止、特高の解体、責任者の罷免などを含む、いわゆる「人権指令」が出されると、とたんに同じ新聞は、翌日の紙面に行数を割いて、他人事のように、「三木清氏の獄死事件は戦時中全く外部と遮断された思想警察への反発として多くの反響を呼んでいる」、と書いたのである。
 これもまた、典型的な、「日本の秘密警察を難じた占領軍のきつい顔色を窺って俄かに力を得た軽輩の声」(佐藤信衛)だったのだろうか。いな、それ以下だった。
 三木清の獄死は、首相の「ご明断」で政府が治安維持法体制の改革を進めていた「その矢先、偶然にも」起こった出来事だ。と、そのように書くことによって、記事は、政府を弁護し、三木の死に対して免責したのである。
 もちろんここでもまた、「廃止」「改革」に向けた動きが、「首相宮」の周辺にあったかもしれないことを全否定するのではない。けれども、少なくとも彼は、内相らを抑えることなく(抑えられず)、従前のままの政治警察体制で乗り切れると判断した。「戦争に負けてしまった後も釈放をサボタージュして、ついに三木さんの思索生活に最期のとどめを刺したのは、敗戦の事実を押し隠し、封建支配をつづけようとした破廉恥な東久邇内閣であった」(山崎謙)。