三木清:獄死前後8

 三木はなぜ獄中にいたのか、獄中でどのようにいたのか、などについては後で取り上げることにして、いまは三木の死亡記事(9月30日)から「三木氏獄死事件の示唆」記事(10月5日)までの5日間をのできごとを、確認してみよう。記事と記事の間ということで、先ずは新聞の紙面から抑えておく。
 10月4日「【市川正一氏も獄死】先頃三木清氏の獄死が伝へられたが、往年の日本共産党の闘士市川正一氏もまた今年三月十五日に宮城刑務所で死亡していたことが明らかになった。氏は〜(以下人物紹介、略)」。
 第一点。「先頃三木清氏の獄死が伝えられたが」と、第三者的に書いている。この言い方で新聞は、30日の死亡記事は自分たちが取材をしてえた情報を伝えたのではなく、刑務所あるいは法務省から、または岩波経由などで、いずれにしても知らされた内容を載せただけだったということを、図らずも告白している。このことの意味は、後に重要になる。
 第二点。「市川正一氏もまた〜死亡していたことが明らかになった」と、これまた自然現象のように書いている。実際、市川氏の死亡の事実もまた、自分たちが明らかにしたのではない。3月の死を9月末まで隠していた、少なくとも公表しなかった刑務所側から、その事実を聞き出したのは、朝日でも他の日本の新聞でもなく、ロベール・ギランら、外国人記者だった。
 ちなみに、「戸坂・三木の獄死」とセットでいわれることの多い戸坂潤は、8月9日に長野刑務所で獄死するが、彼の死亡記事は、50日後の9月28日に出た。