三木清:獄死前後11

 無駄に細かいことをもう少し。
 三木の死亡記事が、4日後の30日に出るのだが、新聞社は三木の獄死をどこから知ったのだろうか。いずれにせよしかし、「告別式は三日午前十時から〜自宅で」とあるのは、遺宅の誰か、または東畑からの情報だろう。
 ということで、3日に告別式をしたのだろうが、それ以上のことは(私には)分からない。例えば中島健蔵の日記は後でまた取り上げるつもりだが、彼は30日の朝刊で三木の死を知り、翌1日に岩波に寄って状況を聞き、「明日夜、通夜をする」と知る。それで、2日の夕方三木家へ行くが、翌日早朝に自宅に帰っている。仕事(授業)があったらしいが、3日の日記に告別式欠席等の記述はない。
 通夜に集まった友人たちの名前は、何人かが、自分も含めて何人かをあげている。他には岩波関係者など。ただ、通夜に参加した人たちの証言に娘の影がないように思うが、学校だったのだろうか。
 ちなみに、小林多喜二の場合は、酷い拷問のあとも生々しい遺骸が戻ってきたのだが、戸坂の場合は、既に焼かれて遺骨だけが渡されたという。死んだ場所の違い、時期の違い、留置と服役の違いなどによるのだろうが、三木の場合は、荷車で運んだのだから遺体であろう。それが、2日には「型通りの祭壇。白木の台の上の白布。蓮の造花。やや古い写真」となっている。29日(土)または翌日に娘が骨を拾ったという想像もできるが、もちろんそれも分からない。
 多喜二の場合は、何枚も遺体の写真が撮られ、通夜の参列者の写真もあるが、虐殺の証拠を残すという強い意図があったからだろう。今と時代が違うので、三木の場合は、通夜、告別式の写真はないようだ。
 付記すれば、特高を怖れて多喜二遺体の解剖検視を引き受ける病院はなく、「心臓麻痺」の4文字で片づけられるが、特高はその後「多喜二のように殺されたいか」と脅したという。三木についてはどうか。拷問で歯が抜けてしまったために麦飯が食えなくなって衰弱死したという証言もあるが、それはどうだろうか。