武士道について5:「武士道」と「平民道」

 連日何万人ものデモが続いた韓国では、大統領が罷免となりましたが、こちらでは、アベを守れ省庁を守れと懸命にバリアをはる力が<強く>(結局それは人々が権力に<弱い>というでしょうが)、森友学園が悪い理事長がおかしいという方向に流れができてゆきつつある様子です。ウソがホントにホントがウソになる世の中。
 そんな黒いウソと一緒にされては甚だ迷惑ですが、当方も、いつものことながら、ホントのようなウソとウソのようなホントの境を彷徨っています。新渡戸の『武士道』も記憶だけで、手元に本があって書いているのではありません。図書館か本屋へ行けば立ち読みできるのですが、さきほど思いついて青空文庫に行ってみると(多分翻訳の著作権がまだ有効だからでしょう)『武士道』はなくて、かわりに「平民道」なる文章を見つけました。
 『武士道』から20年後の1919年。ロシア革命にドイツ革命が続いて皇帝たちが追放され、冬の時代が終わって米騒動とデモクラシーが騒然たる19年に、新渡戸が雑誌に書いた一文ですが、これが、訳の分からなさも含めて面白い。私などがごちゃごちゃいうより、これを読んでもらった方が早いので、端折って要点だけ引用させていただきます。(全文でも短いので、興味のある方は、青空文庫でお読みください)。
 ◯ デモクラシーは平民道。
 しばしば紙上に述べた通りデモクラシーは現時世界の大勢である、これに背く民はその末甚だ憂えられる。
(このような)吾輩の主張は今回に始った事でなく二十年已来の所信であった。〜「君は武士道の鼓吹者とのみ思っていた」(と質問されたことがあるが)、〜拙著『武士道』の巻末を熟読せられたなら、吾輩の真の主張が理解されるであろう。〜
 (デモクラシーという)字を民主主義とか民本主義とか訳するから国体に反くような心配を起すけれども、僕はこれを簡単に平民道と訳してはドーであろうかとの問題を改めて提議したい。
 〜僕は度々(「武士道」という)この文字の出所を尋ねられたけれども、実は始めて用いた時分には何の先例にも拠った訳ではなかった。然るに今日は武士道といえば誰一人この字の使用を疑うものはない。
 元来武士道は〜武士の階級的道徳(であった。)〜。しかし〜、これからはモー一層広い階級否な階級的区別なき一般民衆の守るべき道こそ国の道徳でなくてはなるまい。
 また国際聯盟なんか力説される世の中に、〜武士を理想あるいは標準とする道徳(は)〜時世後れであろう。それよりは民を根拠とし標準とし、これに重きを置いて政治も道徳も行う時代が今日まさに到来した、故に武に対して平和、士に対して民と、人の考がモット広くかつ穏かになりつつあることを察すれば、今後は武士道よりも平民道を主張するこそ時を得たものと思う。

 ということで、新渡戸氏は、自分は「武士道」なる語を発明して本を書いたばかりに、「武士道の鼓吹者」のように見なされたのであるが、実は自分は、当初からむしろデモクラシーの鼓吹者であった、といいます。そして、デモクラシーを平民道と訳して、国民道徳にして行コーというのですが、つまり新渡戸氏のいうデモクラシーとは「道」なんですね。「一般民衆の守るべき道」、「国の道徳」。となれば、デモクラシーは「国体にそむくような心配はない」わけです。
 新渡戸氏の論はまだ続きますが、今日は遅いのでここまで。(続く)