武士道について6:「武士道」は「平民道」

 新渡戸「平民道」の続きです。
 ◯ 平民道は武士道の延長
 〜僕は時代とともに始終考えを変えて行くように聞えるであろうが、〜根本的の考えは更に変らない〜
 (現在では、士といっても)〜学士を始として代議士もあれば弁護士もある。〜国士もあれば弁士もある。即ちこの新らしき士族は〜いわゆる平民なる一般国民に比してより高き教育を受け、〜名誉ある位置を占め、社会の尊敬を受けるものであるから、誰人も士たらんことを望むであろう。さすればやはり「花は桜木、人は士」なりと歌っても、あな勝ち時代錯誤ではあるまい。〜
 僕のいわゆる平民道は予て主張した武士道の延長に過ぎない。〜人智の開発と共に武士道は道を平民道に開いて、従来平民の理想のはなはだ低級なりしを高めるにつけては、武士道が指導するの任がある。

 アレレ、吾輩は時代遅れの「武士道の鼓吹者」ではなく、「民を根拠とし標準と」するデモクラシーを昔から主張しておった、といっていたように思いましたが、デモクラシー(平民道)はやっぱりダメですか。新時代でも、「平民なる一般国民」は、「花は桜木、新士族」を尊敬し理想とし、彼らに「武士道」の指導を受けなければならないようです。
 では、「武士道が指導する」とはドーいうことなのか、もう少しオジサンの話を聞いてみましょう。
 〜已に数百年間武士道を以て一般国民道徳の亀鑑として、町人百姓さえあるいは義経、あるいは弁慶、あるいは秀吉、あるいは清正を崇拝して武士道を尊重したこの心を利用していわゆる町人百姓の道徳を引上げるの策に出でねばなるまい。丁度徴兵令を施行して国防の義務は〜、すべての階級に共通の義務、否権利だとしたと同じように、忠君なり廉恥心なり仁義道徳も〜、いやしくも日本人に生れたもの、否この世に生を享けた人類は悉く守るべき道なりと教えるのは、取りも直さず平民を士族の格に上せると同然である、換言すれば武士道を平民道に拡げたというもこの意に外ならない。〜
 ツッコミ所満載ではありますが、いってることは分かりやすいですね。学士、代議士、弁士など(力士もきっとソーでしょう)「新しき士族」と違って、「平民の理想ははなはだ低級」なので「いわゆる町民百姓の道徳を引き上げ」て、万人が「忠君」の道徳をもって徴兵義務をはたすのが、武士道を「拡げた」平民道(デモクラシー)。
 で、徴兵されてドーなるのかといえば、平民もめでたく「兵士」という新士族になって、だからまあ、戦争に行くわけですね。では、どこへいって誰をやっつけるのでしょうか。
 ちょうど立川文庫最盛期でもあり、英雄豪傑智将剣豪よりどりみどりの中から、ここで義経、弁慶、秀吉、清正という四人が挙げられているのがヒントかも。まあ勧進帳は「武士道」の話といえなくもないでしょうが、秀吉が武士道?
 しかし、これ、時期を考えれば別の意味が見えてきます。
 新渡戸のこの論は1919年5月ですから、執筆はおそらく4月。韓国併合後最大の「三・一独立運動」只中の時期に書かれています。多くの朝鮮人を殺し、警察と軍隊の力で「暴動」を「鎮圧」したことを、日本世論が歓迎する中、少数の批判者であった吉野作造ら「民本主義者」を批判して「平民道」を提唱した新渡戸は、ドーいう姿勢だったのかは知りませんが、秀吉、清正の名を出せば、当時の誰もが、文禄・慶長の役、当時の言葉で「朝鮮征伐」と、清正の槍の「虎退治」を思い出したでしょう。
 加藤清正は、秀吉の重臣の一人だったのに、関ヶ原では東軍に寝返っていますし、Wikipedia加藤清正の項では、こんなエピソードを伝えています。
 ・・・ある戦で、弓の使い手として知られた武将が矢を射ようとした時、清正は「一騎討ちなれば、正々堂々太刀で勝負せよ」と声を掛け、自分の槍をその場で投げ捨てた。これを見た相手の武将が弓を捨てたところ、清正はすかさず槍を拾いあげて突きかかり、討ち取った。・・・同じく、ある城を攻めた歳、城中に和平の使者を送り、相手が出迎えの衆を寄越すと、突然襲い掛かって皆殺しにした。
 「どこが武士道やねん!」といわれるでしょうが、清正が格別卑怯だったというわけではなかったという話は、いずれまたということで。今日はここまで(続く)。