武士道について7:デモクラシーは「腹の中」

 大した内容のないことばかりで申し訳けありません。乗りかかった船ですので、あとは簡単に。
 ◯ デモクラシーは国の色合
 デモクラシーは決して共和政体の意味にのみ取るべきものでな(く)、寧ろ国の品性もしくは国の色合ともいいたい。〜僕のしばしば言うデモクラシーは我国体を害しないものとはこの意味であ(る)。
 僕は政治的民本主義が実施さるるに先って道徳的といわんか社会的といわんか、〜(そういう所に)デモクラシーが行われて始めて政治にその実が挙げられるものと思う。〜政治的民本主義も鼓吹すべきであるけれども、物の順序より言えば一般人民の腹の中に平民道の大本を養ってその出現が政治上に及ぶというのこそ順序であろう。

 以上、いろいろツッコミどころもありましたが、この人の最終的な着地は、マーこんな所なんでしょう。
 笑ってばかりではいられません。「一般人民の腹の中に平民道の大本を養って(はじめて)その出現が政治上に及ぶ」。逆にいえば、「腹の中」で「何によらず人格以外の差別」をするような輩が多数であれば、アベの支持固く、批判者や少数者を狩るための共謀罪も通るわけです。
 さて、新渡戸に関わり過ぎました。本題の「武士道」に戻り、もう一度、斉藤美奈子の一文を確認してみましょう。
 二冊の本は、似たような時代背景と同じ執筆意図を持っていた。すなわち、(1)時代の大転換(明治維新江戸幕府開闢)によって、(2)失われた過去の気風(美風)を、(3)日本を(当時を)知らない人々に伝える。おわかりだろうか。〜もともと「過去の栄光」の本なのだ〜。
 しかし、二冊の解説は、武士道がどんな形で消費されてきたかを身をもって示している点で興味深い。「日本人はこれでよいのか」〜、「いまの日本人はたるんでる」と考える読者(へのアピールである)。

 最初に書いたとおり、異論はありません。『武士道』『葉隠』二冊の「消費のされ方」は、この通りだと思います。
 ただ、そうだとすると、奇妙なことが起こっています。「いまの日本人はたるんでいる」、じゃ「過去の美風」「過去の栄光」というその「過去」とは、いつの時代のことなんでしょうか。
 ◯新渡戸『武士道』によれば、栄光の過去は維新以前、つまり江戸時代ということになります。
 ちなみに、そのような視点でよくできた紹介文が、全日本剣道連盟のHP(→ここ)に見られます。
 柳生宗矩宮本武蔵らの)書が武士に問いかけたことは、如何にして死を超越して生に至るかという問題であり、それはそのまま武士の日常生活の教育でもあった。武士は、これらの指導書、また教養書を学び、日常生活は厳格で質素であり、才能を磨き、武術に励み、善悪を知り、一旦緩急があれば藩のために国のために命を捧げることを知っていた。通常の仕事は現代でいうと官僚であり軍人であった。
 ここで生まれた武士道の精神は264年に及ぶ平和の中で養われ、封建制度の幕府が崩壊しても日本人の心として現代に生きている。

 武士とは、「一旦緩急があれば」藩のため主君のために「身命を捧げる」者であり、その時に備えるのが武士道であって、そのような「武士道の精神は264年に及ぶ(江戸時代の)<平和>の中で養われ」た、というわけです。ところが、
 ◯『葉隠』は、いや江戸時代の<平和>こそが、本来の武士道を殺してしまったといいます。ということは、「栄光の過去」は、もっと昔なのでしょう。
 またまたところが、・・・なんて私がいうよりも、例えば、小説ですが、池宮彰一郎氏はこう書いています。
 君臣の大義、という。〜主君に身命を捧げ尽す忠義が、武士にとって最高の道徳である。(しかし)徳川幕府二百六十五年の封建の世は、すべて忠義の道徳律で規制されていたかのように思われ勝ちだが、そんなことはない。〜
 戦国の世の君臣関係は、〜純然たる雇傭関係であった。たまさか主君に献身する者があっても、それは立身の機を得ようと努めたか、主君の野望に共鳴して青史に名をとどめようとする観念からのものが過半であったと思われる。主君の行状が意に合わなければ禄を弊履の如く擲って退身することに何の不思議はなかった。〜
 幕府が、封建体制の確立と維持のため、忠義の道徳律を積極的に推進するようになったのは、〜寛永九年(一六三二)ごろからであり、〜幕藩体制の保持に彫心縷骨した老中土井利勝の深慮によって発案され、次代の松平信綱によって定着したと伝えられている。
 だが、道徳思想の徹底は一代で成し遂げられるものではない。〜元禄十四年(一七〇一)は六十八年後に当るが、三百余の大名家に「君、君たらずとも、臣、臣たり」という絶対的な君臣の義が徹底したとは思えない。

 これは困りました。武士道すなわち「君臣の大義」は1701年になっても「まだ」徹底していなかったということがもし本当だとすれば、『葉隠』の出版は1716年ですから、山本常朝が武士道は「もはや」廃れてしまったと嘆く、その「まだ」と「もはや」の間に、隙間がほとんどなくなってしまいます。「一旦緩急あれば」「主君に身命を捧げ尽す忠義が、武士にとって最高の道徳」といっても、それはただの理想であって、実際には、1701(ちなみにこれは赤穂浪士討ち入りの年ですが)には「まだダメ」で、1716年には「もうダメ」だ、ということになります。(続く)