武士道について11:愛人秘書道

 戦国の世には、主君に対する最大の奉公は戦功をあげることでしたが、そんな時代はとっくに過ぎ去っています。今や藩という地域支配の会社に貢献する道は、例えば、氾濫の絶えなかった河川に堤防を築く大工事を指揮して遂に完成させたり、備蓄倉の配置を提案して大飢饉の年に一人も餓死者を出さなかったり、配慮に富んだ村方政策によって積年の藩士郷士の対立を和解に導いたり、特産品の生産振興と販路拡大によって危機に瀕していた藩財政を立て直したりなどなどであり、つまり有能なサラリーマン、有能な公務員として、会社の安定経営に大きく貢献することこそが、社長の信頼を勝ち取る時代になっています。
 もちろん、社長の目にとまって小姓として勤務を始めた少年でも、有能で社長の信頼が続けば、長じて御側用人、秘書課長となって、主君の側近として活躍できるでしょう。
 けれども、膝の上に乗って「社長の一番の側近は私よ」、なんていうだけの愛人秘書は、まともな社長ならやがて首にするでしょう。幸か不幸か、鍋島光茂という藩主は、かなりマトモな社長だったようです。稚児小姓だった常朝は、何年もせず、ちょっとしたきっかけで社長の不興をかい、お役御免になってしまいます。
 何年かして仕事はもらえますが、資料室図書係?で、遠く京都支店などに出されたりしたことを除けば、図書係長か文書係長で終わっています。藩の職制は知りませんので、間違っているかもしれませんが、まあ閑職ではないでしょうか。
 Wikipediaには「「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝」とあります。「心意気」はそんな人だったのでしょうが、しかし「側近」といえる程の信頼を得ていたのかどうか。職務制度上は庶務、秘書課に含まれていたのかもしれませんが、藩政に関して相談を受けたりするような立場にはなかったと推測します。かといってまた、上に述べたような意味で、どこかの部署で成果を出して、会社の発展に大きく貢献し社長の信頼に応えた、というようなこともなかったでしょう。
 それでも(と、最初に書いたように、独断と偏見でいうのですが)、常朝はこう思っていたのです。「誰が何といおうと、社長の一番のお気に入りは私よ。だって私は愛人だったんですもの。いいえ、過去形じゃなく、今も私は社長を愛してる。財務や土木や企業振興や福祉やその他その他、領民のためだと口先だけカッコつけて、お勉強をし、業績をあげることに汲々としている、あんな連中が何よ。もちろん仕事ができることは認めるわ。社長から信頼もされているでしょう。でも、あんなのはサムライじゃない。じゃ、お前は何ができるかって? サムライは死ぬことなりと見つけたりよ。」(続く)