選ばれる島妻

 (承前)薩摩の奄美支配についても愛加那についても研究している方がもちろんいるようで、Wikipediaの「愛加那」の項(ここ)を見ると、事態は、もう少し複雑なようです。
 晩年も島を離れなかった「愛加那」は、龍家の墓地に、「龍愛子」の名で葬られているとのこと。産んだ子は後に本土に引き取られて西郷姓となりますが、彼女自身は、島妻という制度により、「愛子(愛加那)」という名を与えられただけで、「龍」家に留まったのでしょう。それでも、「龍」という姓を持っています。
 「(愛加那は)小説やドラマ等では貧しい農家の娘として描かれることがあるが、事実はまったく異なる(そもそも、農民に名字はない)。龍・田畑家は初期より薩摩藩による奄美統治の一翼を担っており、藩財政を支える砂糖生産を管理する為政者サイドであった。」(Wiki)
 彼女は本家ではなく分家筋の出自だそうですが、龍・田畑家については、もう少し詳しく、次のように書かれています。
 「上記家譜等によると、もともと龍・田畑家は奄美大島の支配者・笠利氏を名乗り、長らく藩政に協力した後、1726年に代々外城衆中格(後の郷士格)となり田畑姓を与えられるが、1785年に藩命により龍に改める(明治になって田畑に復姓)。本祖である為春(1482年 - 1542年)は琉球の尚稷王(1434年没)の孫とされ、『校正鹿児島外史』では、笠利氏は源為朝嫡流(嫡男・為頼の裔孫)であるとされている。後の龍・田畑家は明治維新まで奄美の実質的な為政者として存続し、幕末期の薩摩藩の主財源であった砂糖生産に大きく貢献することとなる。」(Wiki)
 だとすると、西郷と愛加那の「結婚」については、
 ◯西郷が、「身の回りの世話をする召使い女」を島に要求して、あるいは愛加那を見初めて、島妻とした。
 ◯愛加那が、西郷を見初めて言い寄り、島妻となった。
のいずれでもない、もうひとつの意味が浮かび上がります。
 ◯龍家が、薩摩藩から来島した西郷を龍郷に預かり、一族の女性を娶せた、少なくとも島妻となることを公認した。
 これはもう、「純愛物語」ではなく、かなり政治的物語ですね。西郷は薩摩藩から役人として派遣されたのではなく、変名して潜居していたのですが、島の代官所から禄をもらう「薩摩の人」でした。そのような薩摩藩士西郷が、薩摩の島支配に協力する「奄美の実質的な為政者」一族の娘を、薩摩の藩法に基づき、島妻としたのです。西郷は、多分それほど悩まずに、あるいは全く悩まずに、島妻という制度を受け入れます。
 
 ここで思い出したのは、柳田国男のことです。といっても、何に出ていたのか、『海上の道』だったかと思って、青空文庫のテキストを流し見したのですが、どうもなさそうで、そうだ『海南小記』だと思い返したのですが、残念ながらそちらは青空文庫に未収録です。といって図書館や本屋に行くのは面倒なので、以下は記憶によるものですから違っているでしょうが、というより確実に違っていますが、大筋だけが問題ですのでご容赦ください。柳田の名文は、そのうちご紹介し直します(かもしれません)ので。
 薩摩による支配収奪を受けることになる琉球ですが、琉球ではまた、本島による先島への支配収奪が構造化され、さらに先島諸島では、支庁のあった石垣島から最果てのここ与那国島まで、同じ構造が伸びていました。柳田は、港が見える場所にある機屋跡を訪れます。かつて、石垣島から支庁の役人が来ることになると、しかるべき家からここに集められた娘たちが、機を織ってみせ、役人の目にとまった娘が、滞在中の「身の回りの世話」をしたのだというのです。
 これを、人身御供的な個人の悲劇とだけとることはできません。選ばれて島妻となった女性も産んだ子も役人の身内格となり、家は人頭税を免除され、「光栄にも」選ばれた女性は、役人が島を去るとき、機屋に立って哀惜の涙を流したかもしれません。もちろんそれはまたそれで、誤った美化でしかないでしょうが、支配や差別や収奪といったことが単純な構図でないことだけは確かなことでしょう。問題は、「愛」がどうこうということではなく、機屋や島妻という制度にあります。
 もちろん、このような構造は、人頭税が廃止され機屋が取り壊されても、いや南の島のことではなく、現在の大都会でも、繰り返されています。