世話をする島妻

 (承前)といっても、「召し使いおき候女」と書いたからといって、そのことで、西郷には「愛」がなかったというつもりはありません。というより、現在私たちがイメージする「愛」というのはかなり新しい観念であって、以前は、側に置いて「召し使う」ことと「愛すること」の区別などは、おそらく問題にはならなかったでしょう。
 いつものように横道ですが、西郷が愛加那を島妻にしたのは1859年ですが、その2年前の57年に、初代米総領事ハリスが病気になり、通詞ヒュースケンが「病人の身の回りの世話をする女性」の斡旋を日本側に依頼します。しかし日本では、いや日本どころか、大体ナイチンゲールが史上はじめて看護婦養成所を設立したのがちょうどその時代1860年ですから、当時の日本に看護婦などはいない、というよりそういう概念がありません。要請を受けた幕府の役人は、「身の回りの世話をする女性」として、下田の人気芸者吉を選んで説得を重ね、やむなく吉はハリスのもとに行き、3ヶ月後に病が癒えて解雇されるまで、ハリスの「身の回りの世話」をします。ハリスの側からは、「病人の世話をする召使いの女性」を雇ったつもりだったのでしょうが、日本人たちは、ハリスの「側で世話をした」吉を、唐人の「側女」、「ラシャメン(洋妾)」となった女と蔑み、悲惨な晩年に突き落とすのでした。
 ところで、これは完全な想像でしかありませんが、ハリスは、病が癒えるまで親身に世話をしてくれた吉に対して、格別に感謝の気持ちをもったかもしれませんし、それを、「ハリスは吉を愛した」、といっても、別に構わないわけです。また、吉としても、家に入って世話をするうちに、相手への「情」が湧いたかもしれませんし、それを、「吉はハリスを愛した」といっても、別に構わないでしょう。少なくとも、「僅かな期間であったが、二人の間には互いに愛情に似た心の動きが芽生えはじめていた」、というようなドラマが書かれても、完全なウソとはいえないかもしれません。
 実際のところは全く知りませんし、おそらく分からないでしょうが、現代の視聴者向けのドラマでは、西郷は「薩摩支配を背景とした「島妻」としてではなく、「妻」として愛加那を愛した、といった作りにするでしょう(多分)。しかし、時代を理解すれば、「島妻」として、「召し使いおき候女」として愛した、といっても構わないし、おそらくそういうことだったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。(もう一回だけ、明日に続けます)