読まない本のタイトル4(上野千鶴子先生と田房永子氏)

 政府は、国民の側に自粛をしろというだけで、マスクを2枚づつ郵送するという他には、自分たちがやるべきことは何もしない。とりわけ検査をしない。口先ではいろいろ言うが、実際には、とにかく検査を渋る。検査数を抑えることに賭けているとしか思えない。山中伸弥教授も、いっている。「今の10倍、20倍の検査体制を大至急作るべきです」。「中国、韓国、イタリヤ、アメリカで出来て、日本で出来ない理由はありません」。

 身の上相談の話に入る。
  欧米の新聞などとは違って、この国の「身の上相談」は、基本的に他人の密かな悩みを扱う片隅記事扱いが多いが、それでも、例えば町田康の『人生パンク道場』などには、「恋愛は不在の不安に妙味があり、結婚は常住の安心に意義がある」といった堂々たる(?)人生訓が載っていたりする。
 2,3年前、新聞の身の上相談欄で、中学生だったか高校生だったかの、こんな相談投書が取り上げられた。「彼女はいませんが、セックスがしたくてたまりません。どうしたらいいでしょう」。で、上野千鶴子先生が、(記憶によれば)大要こんな回答を書いていた。「まわりの年上の女性に次々とお願いしてみてください。きっとして(させて)くれる人がいるでしょう」、と。
 この手の記事には、(実際に投書があったかどうかは別にして)相談と回答が「作られる」という事例がありうるだろう。例えば、「父が宇宙人です。どうしたらよいでしょう」「缶コーヒーをあげればよいでしょう」、というような。上野先生の回答にも、そういう匂いが感じられなくはない。少なくとも、(どうです、私の回答は、そこらの陳腐な回答とは違うでしょ)といった、「読者向け」の匂いである。
 しかし、もしそうではなく、実際に悩む中高生がいて、その「相談者向け」の回答だとするなら、この回答は可哀そうだろう。そこには、鴻上尚史氏の身の上相談にあるような、相談者に寄り添う優しさがない。鴻上氏なら、あくまで仮にだが、仮にもし同じような提案回答をするとしても、「ただし」と付けるに違いない。姉のクラスメートが遊びに来なくなり、家庭教師の女子大生が辞めてしまい、コンビニの店長に怒鳴られ、近所から苦情が来る、といったリスクがあるということは、よく考えておいた方がいいですよ、と。
 後で田房永子氏に言及するためもあり、次の2点も確認しておきたい。この相談者は男子中高生であるが、仮に女子中高生だったらどうか。その場合も、「まわりの年上の男性に次々とお願いしてみてください。きっとして(させて)くれる人がいるでしょう」、と答えるのかどうか。そのように読み替える女子中高生がいるかもしれないということを繰り込んだ回答なのかどうか。それが分からない。もうひとつ、この回答には、「私なら、きいてあげますよ」、ということが暗黙裡に繰り込まれているのかどうか。それが分からない。「この回答は可哀そうだろう」、とさきほど書いた。
 よく知られているように、最近の上野氏といえば「おひとりさま」である。性差別との闘いは従属、依存との闘いでもあればこそ、何より自立が目指される。少なくとも現在社会では、対幻想が対自立より相互依存に傾くことに抵抗して、あえて連帯を求めず孤立を怖れない「おひとりさま」の姿勢を、重要な橋頭保として確保したい。
 問題は性関係である。自立する個(孤)的存在にとっては、性は、他者関係の問題としてより、属性的な欲望の問題として扱う方が処理しやすい。つまり、おひとりさまはパートナーなど要らないが欲望はある。
 上野先生の回答には(どうです、そこらの陳腐な回答とは違うでしょ)といった匂いがする、と先ほど書いたが、実際、流石と思わせる回答ではある。おそらくそれは、「愛」などという関係幻想などには一顧も与えず、「誰でもいい」欲望のやりとりとして性を扱って見せたことによる。
 そこで、田房永子氏であるが、それは次回に。