善い人が地獄で待つわけ

 善人芸能人といえば、ナイナイ岡村もそうなのだろうか。少なくとも、他人をイジメて笑いをとるタイプではないようだ。NHKでは、5歳のチコちゃんと共に、大人から子供まで人気がある。芸能ニュースの定番である男女関係スキャンダルと無縁らしいことも、理由のひとつなのだろう。
 ともかく、騙したり犯したり裏切ったり奪ったり暴力をふるったり、といったことをしそうにはみえない。そういったことが発生する関係性から遠く身を持している結果の独身なのだろうか、ともかく悪い人ではない、つまり、善い人なのだろう。
 で、その岡村が、どこかのラジオ番組で、「自粛の呼びかけ」という善い行いをしたつもりなのか、こんなことをいったという。(ネットで見たばかりだから探せば、記事を書いた方を紹介できるし、文も正確にコピーできるのだが、二度と読みたくはないので、探さない。だから記憶違いがあるかもしれない)。ともかく、こうだった。
  「コロナのために、みなさん風俗に行けなくなって大変と思います。しかし、この状況が続けば、思ってもみなかった美人の女性がたくさん、お金がなくなって、風俗に落ちてきます。必ずそうなります。それを楽しみに、いまは我慢しましょう」
 このニュースが炎上的非難を招くのか、それともスルーされるのか。それは分からない。しかし、おそらく騙したり犯したり裏切ったり暴力をふるったりしない「善い人」ゆえに、今は我慢とアリジゴクで待ち受けているのである。

為政者が戦争を好きなわけ

 昨今では、ニュース番組のMCをしていても違和感を持たれないのだから、「お笑い芸人」などという言葉も死語になっているのかもしれないが、かつては相方や弟子や共演者をイジメて笑いを取るのが定番だった。ちなみに、イジルとイジメるは同義である。
 ところが最近は、新しい風とかで、「やさしい」のが好まれる傾向にあるといわれている。私は、テレビをほとんど見ないのでよく知らないが、サンドイッチマンなどはその代表といえるだろうか。彼らを悪くいう人は誰もいないだろう。
 だから、このいま、彼らは多分、頑張っている医療関係者にも、耐えている経営者にも、おびえる被雇用者にも、我慢している子どもたちにも、その他みんなにエールを送りたいと願う。危険を冒してレジを担当してくれているスーパーの店員も、毎日会見して自粛を呼びかける知事たちも、毎日紙きれを読み上げて家で寛いでいる首相も、みんなそれぞれ頑張ってくれているじゃないか。今は、批判したり足を引っ張たりしている時じゃない。一致団結して、この難局を乗り切ろうではないですか。・・・と、どちらかがいったとか。誠に善意のことばではある。
 なるほど、為政者が戦争を好きなことが、改めてよく分かる。

読まない本のタイトル5

 そういえば昨年の東大入学式祝辞は流石だったが、最近は上野先生の本で「学ぶ」ことを全くしていないので、読んでもいない本のタイトルや身の上相談記事などだけで物言いをしてしまい、誠に申し訳ないことである。先生ご自身がこんなものを読まれる気遣いは全くないが、もしファンの方からケンカを申し込まれた場合には、直ちに謝ってしまうつもりである。元組員武闘派の方がケンカ場に臨む極意について書かれたものを読んだことがあるが、それによれば、最上策は「とにかく躱して逃げるべし」とのことだった。それにしても、このままコロナを躱し切ることができるのかどうか。「偽造、捏造、アベシンゾウ」(小笠原誠治)が怖い。

 さて、田房永子氏の本は、私は2冊しか読んだことがないが、うち一冊は、『男しか行けない場所に女が行ってきました』である。ごく簡単にいえば、エロ新聞に掲載するマンガのために、風俗産業の現場に行って見聞きしたことについてのルポである。手元にないので、内容には触れられないが、風俗産業に従業する人々、そこに寄生する風俗出版業界の人々、さらにそこに寄生する田房氏自身、という三層の<生活>を背景に、田房氏は、例えば風俗嬢に、仕事の現場で、どう感じどう感じないのか、何を思い何を思わず、何を考えまた考えないのか、を聞く。名著だという人がいるのも頷ける。
 上野氏のごくごく短い身の上相談回答と田房氏の一冊の本を比較するのは、もちろん不公平、乱暴きわまりない話であるが、それは重々承知の上で、身の上相談回答について注意しておいた2点を想起しつつ、田房本に触れる。
 身の上相談回答では、「私なら」どうなのかが分からなかったし、「女子生徒」にも同じ回答なのかどうか分からなかった。短い回答欄に言葉として書いていなかったということではなく、暗黙の言及が読み取れなかった、という意味である。(かなり前に読んだだけなので、記憶が間違っている可能性はなくはないが)。乱暴にいい換えれば、相談者の生徒もまた、衝動を抱えた中性の「ひとり」ともいえよう。
 一方田房氏は、自分の性をはっきりと語ることから始めている。それも特定性のない性衝動としてだけではなく特定的な関係性愛ととしても。その上で、タイトルにあるように、風俗店が「男しか行けない場所」であるのはどういうことなのか、そしてそこに「女(である私)が行った」ことで何が起こるのか起こらないのか、ということを、繰り返し問い、そして考える。
 私は「フェミニズム」がいかなるものかよく知らないが、それでも言ってよければ、田房氏が問いそして考えることこそ、活きている「フェミニズム」ではないのだろうか。
 それでも、あるいはそれゆえに、田房氏が、理屈としての「フェミニズム」についてゼロから学びたい、というのは分かる。それは分かるが、「先生、ゼロから教えてください」、といわれて、「よろしい、ゼロから教えてあげましょう」、と衒いもなくいった上野先生は、さすが東大の先生だ、ということもよく分かる。

 東大の先生はえらいという、ありふれたことが分かったというだけのことだが、そういえば、先に触れた京大の望月先生のABC問題の証明は、予想より早く受け入れられたようで、こちらの方は全く分からないながら、とにかくすごいことらしい。

読まない本のタイトル4(上野千鶴子先生と田房永子氏)

 政府は、国民の側に自粛をしろというだけで、マスクを2枚づつ郵送するという他には、自分たちがやるべきことは何もしない。とりわけ検査をしない。口先ではいろいろ言うが、実際には、とにかく検査を渋る。検査数を抑えることに賭けているとしか思えない。山中伸弥教授も、いっている。「今の10倍、20倍の検査体制を大至急作るべきです」。「中国、韓国、イタリヤ、アメリカで出来て、日本で出来ない理由はありません」。

 身の上相談の話に入る。
  欧米の新聞などとは違って、この国の「身の上相談」は、基本的に他人の密かな悩みを扱う片隅記事扱いが多いが、それでも、例えば町田康の『人生パンク道場』などには、「恋愛は不在の不安に妙味があり、結婚は常住の安心に意義がある」といった堂々たる(?)人生訓が載っていたりする。
 2,3年前、新聞の身の上相談欄で、中学生だったか高校生だったかの、こんな相談投書が取り上げられた。「彼女はいませんが、セックスがしたくてたまりません。どうしたらいいでしょう」。で、上野千鶴子先生が、(記憶によれば)大要こんな回答を書いていた。「まわりの年上の女性に次々とお願いしてみてください。きっとして(させて)くれる人がいるでしょう」、と。
 この手の記事には、(実際に投書があったかどうかは別にして)相談と回答が「作られる」という事例がありうるだろう。例えば、「父が宇宙人です。どうしたらよいでしょう」「缶コーヒーをあげればよいでしょう」、というような。上野先生の回答にも、そういう匂いが感じられなくはない。少なくとも、(どうです、私の回答は、そこらの陳腐な回答とは違うでしょ)といった、「読者向け」の匂いである。
 しかし、もしそうではなく、実際に悩む中高生がいて、その「相談者向け」の回答だとするなら、この回答は可哀そうだろう。そこには、鴻上尚史氏の身の上相談にあるような、相談者に寄り添う優しさがない。鴻上氏なら、あくまで仮にだが、仮にもし同じような提案回答をするとしても、「ただし」と付けるに違いない。姉のクラスメートが遊びに来なくなり、家庭教師の女子大生が辞めてしまい、コンビニの店長に怒鳴られ、近所から苦情が来る、といったリスクがあるということは、よく考えておいた方がいいですよ、と。
 後で田房永子氏に言及するためもあり、次の2点も確認しておきたい。この相談者は男子中高生であるが、仮に女子中高生だったらどうか。その場合も、「まわりの年上の男性に次々とお願いしてみてください。きっとして(させて)くれる人がいるでしょう」、と答えるのかどうか。そのように読み替える女子中高生がいるかもしれないということを繰り込んだ回答なのかどうか。それが分からない。もうひとつ、この回答には、「私なら、きいてあげますよ」、ということが暗黙裡に繰り込まれているのかどうか。それが分からない。「この回答は可哀そうだろう」、とさきほど書いた。
 よく知られているように、最近の上野氏といえば「おひとりさま」である。性差別との闘いは従属、依存との闘いでもあればこそ、何より自立が目指される。少なくとも現在社会では、対幻想が対自立より相互依存に傾くことに抵抗して、あえて連帯を求めず孤立を怖れない「おひとりさま」の姿勢を、重要な橋頭保として確保したい。
 問題は性関係である。自立する個(孤)的存在にとっては、性は、他者関係の問題としてより、属性的な欲望の問題として扱う方が処理しやすい。つまり、おひとりさまはパートナーなど要らないが欲望はある。
 上野先生の回答には(どうです、そこらの陳腐な回答とは違うでしょ)といった匂いがする、と先ほど書いたが、実際、流石と思わせる回答ではある。おそらくそれは、「愛」などという関係幻想などには一顧も与えず、「誰でもいい」欲望のやりとりとして性を扱って見せたことによる。
 そこで、田房永子氏であるが、それは次回に。

読まない本のタイトル 3

 さて、前2回は無駄な前置きで、もともとここからが本題である。

 先日、「上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!」というタイトルの本が出た。著者は、上野千鶴子田房永子の両氏であるが、タイトルからして、両者は対等ではない。
 「マルクス主義は理論ではなく運動だ」とマルクスはいったそうだ。どういう意味だったのかよく知らないが、理論は運動から生まれ運動から「学び」運動によって鍛えらる、というよなことも含まれていたのだろう。ところがマルクス主義が「理論的権威」となり、理論が運動に「学ぶ」のではなく、運動が理論に「学ぶ」=理論家が運動家に「教える」ということになってしまった時、理論は止まり、堕落し、ついには支配の理論にも転化した。
 「上野先生、フェミニズムについて~教えてください!」というタイトルは、出版社の発案かもしれない。田房氏が持ちかけたのかもしれない。それにしても、上野氏は、タイトルを了承した筈である。「教えるものではありません」とも「お互いに学びましょう」ともいわなかったのであろう。あるいは、そういったのだが、何といわれようと売れて読んでもらうことが大事だからという、「バカ」とか「サル化」などと同じような戦略で、「ゼロから教える」ということになったのかもしれない。事情は分からないが、しかし、いずれにしても、上野先生は、こんな上から目線で自分の名前を入れたタイトルの本を出してわけである。
 ただし、上から目線が悪い、といいたいのではない。名前の入ったタイトルといえば、以前、遥洋子氏の「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」という本が評判になったことがある。上野先生は、ケンカが強いということになっているらしい。「東大で」と入れたのは、「山口組で」誰々にケンカを学ぶ、というような権威づけだろうが、いずれにしても頼もしいことである。弟子入りした遥氏が、関西に帰って、実際にケンカが強くなったのかどうか知らないが、少しは相手をビビらせる自信がついたであろう。
 この国に限ったことではもちろんないが、特にこの国の性差別が酷いこと、一向に改善に向かわないことについては、国際的にも繰り返し指摘されている通りである。差別や抑圧や支配があれば、被差別、被抑圧、非支配者の側に、抵抗から革命まで、ケンカ腰で反抗する闘士が生まれるのは当然のことである。戦略的あるいは戦術的なものも含めてケンカを挑む人々のケンカ腰や高飛車に顔をしかめて、控えめや穏便な物言いを期待することは、それ自体が抑圧的視線である。上から目線であろうと高飛車であろうとビビらせるのに遠慮することはない。例えば、「安部首相、フェミニズムについてゼロから教えてやろう!」といったタイトルを期待したいものである。
 ただ、今回のタイトルはそうではない。「上野先生、教えてください」といったのは田房永子氏であり、彼女に対して、上野氏が「教えましょう」といった、という構図になっている。
 繰り返しになるが、「理論が権威となるとき運動の退廃がはじまる」、とクロイナーはいった。
 で、「身の上相談」の話をしたいのだが、それは次回に。

読まない本のタイトル 2

 オリンピック延期が公表されたとたんに、都内の感染者が連日急増し、都知事が感染爆発寸前と言い出した。巷では、「とたんにこれだもの」、と専らの噂である。五輪のために感染者数を抑える政治的作為があったのか、そうでないならウィルス様が自ら忖度して自制していて下さったのか。
 などと書いたが、オリンピックなどどうでもよい。「自粛」せざるをえないにしても、例えば、住み込みの職場で雇い止めを言い渡されて職も住も一挙に失ったシングルマザー・・・といった人たちが無数にいる筈だ。だから和牛券やお魚券を配るってか。それでも支持率は下がらず、首相夫人はお花見らしい。

 以下は、関係ない話である。
 昔、「バカの壁」という本がやたら売れたことがある。それを引き合いに出して、内田樹氏が少しうけに入っているようだ。あの養老先生には及ばないが、今度出した「サル化する世界」が私の本としては格段に売れたのは、やはりタイトルのせいだろう、と。
 もっとも既に「「サル化」する人間社会」という本が出ているし、「ケータイを持ったサル 」というのも結構売れた筈である。パクリといわれないまでも二匹目のドジョウと勘ぐられかねないが、おそらく内容は異なるから全く問題ないのであろう。(どれも読んでいないので申し訳ないが)。
 ところで、「サル化」というタイトル。別の本で「反治政主義」について言及しているところから見ても、「俺たちはヒトだが庶民はサルだ」などと単純なことをいっているのではなかろう。というより、多分現代の世相への鋭い批評になっていて、かなり共感や同意をもって読めるのだろう。それでも、「タイトルでうけた」というそのうけ方は、どうだったのだろうか。
 本屋でタイトルを見かけた者にとっては(買って読んだ者にとってもたぶん)、それらのタイトルは、「そうか、私たちはバカなのか、サル化しているのか」といった自省的な意味で読み取られるよりは、「そうだ、私の周りはみんな、どいつもこいちもバカなんだ、サル化しているんだ」、と読まれる率の方が高いのではなかろうか。
 たとえ筆者の意図とは大きく違っていたとしても(あるいは正反対であったとしても)、おそらく「タイトルで売れる」ということはそういうことであり、実際に売れたのだからおめでたい限りである。
 などと書いたが、内田氏の本も前置きで、上野千鶴子氏のタイトルのことを書くつもりだった。が、いつものようにまたここで中断。

読まない本のタイトルについて

  コロナの猛威は益々激しく、予断を許さない。
 「最適の季節」とか「アンダーコントロール」とか、ウソで誘致したオリンピックに影響が出ないよう、意図的に検査を絞りに絞って「感染者数」を抑えてきたが、遂に五輪の一年延長が発表された。
 コロナは、何とかこのまま終息に向かってもらいたい。オリンピックは、少なくともその次の事案である。つとに小笠原博毅氏などがいわれるように、オリンピックの誘致そのものが間違いだった。
 (ここまでは前書きのつもりなのだが、今日はここで)