犠牲的アクター

 眠くなって途中で(続く)にしてしまい、何を書いていた忘れましたが、とにかく、イベントにはメタレベルの存在が、不可欠だというほどではないにしても、あれば便利だ、という単純な話をしていたのでした。内田氏は網野史学などを引いて難しそうに言っていますが、要するに複雑重層的な歴史社会のダイナミックなシステム維持には、天皇というメタレベルの「アクター」が、不可欠とはいわないまでも重要な社会的機能を果たすのであって、単純な否定論者は、そこのところを無視した考えの浅い連中だ、ということになるようです。

 ただ、問題の一つは、メタレベルつまり世間を超えたアクターが、今の世にいるかどうかということです。いっそ天にいる神とかビッグ・ブラザーとかいうバーチャルな存在(非存在)に引き受けてもらうという手もありますが、それはそれで構築と維持が大変です。だから生身のアクターが便利なのですが、「世間からの超越」は生身に翻訳すると「世間からの追放」ですので、そんな後に引けない絶対損の役回りを引き受けてくれるような生身の人物が、これからもずっといてくれる保証はないでしょう。だからこそ、上皇の「お言葉」は、まさに理想的な選手宣誓だった、と両氏はともども感心するのですが、それでも、「国民の総意」に基づくアクト(演技)とは何かということを、本気で真剣に考え抜いて、そのために生身を犠牲として差し出してくれるような便利なアクターが、今後とも続くかどうか。またもしいたとしても、その犠牲を強要することが、われわれには許されるのかどうか。

 ということなので、どうでしょうか。「代行アクター」と内田氏はいうのですから、民営化して、国民の総意が集まる俳優(アクター)さんに、期限付きで引き受けて頂くという民営化推進協会案は。社会的に重要な機能があるのだから単純否定は無責任だと内田氏はいうようですが、もし大統領制のような形より、メタレベルの権威を担うアクターを別に置く方が便利だというのなら、リクスのある生身の誰かに押し付け続けるのではなく、一歩進んで、交代可能は人気いや任期つき天皇アクターという民営化協会案に賛同されればいかがでしょうか。なお、私は賛同していますと書きましたが、昔からほんとは賛同していませんが。(続く)

ゴリンと天皇

 少なくとも今のこころは何としてもやめないらしく、ということで、どこかで聖火ランナーが走っているのでしょう。
 走りたい人の気持ちは分からないでもありません。道をチンタラ走るだけで拍手してもらえ、地方テレビニュースに映ったりもするのですから。
 しかし、分からないのは見る方です。タレントなら別ですが、誰とも知らない人たちがダラダラ走っているのをわざわざ見にゆくというのは、どういう気持ちからなのでしょうか。
 福島では、まだ帰れない避難者が、通りに出れば見られる聖火ランを無視していたそうですが、わざわざ結構な人出の道に出かける人は、たぶん、実際に何かを見たいというよりは、「一生のうちに一度しか体験できない」イベントへの参加感をえるために沿道に立つのでしょう。そういえばNHKは、「ゴリン反対」という沿道の声を消したそうですが、反対があってはイベントの値打ちが下がるからでしょう。
 そういえば、柳美里の描くホームレスは、皇族の車が通る度に住まいのテントを撤去させられながら、それでも通りすぎる皇族の車に手を振ります。おそらく、何か大いなるものに囲われる一体感、とでもいったことなのでしょう。

 内田樹氏と白井聡氏の対談本を、結構面白く読みましたが、永続敗戦によりアメリカ支配が続いている戦後レジームに痛憤する両氏は、「愛国者」として天皇制を擁護しています。天皇制は非民主的だなどというが、じゃ君主のいるイギリスは非民主的というのか、逆に君主のいないアメリカに非民主的な人種差別があるじゃないか。上皇の「お言葉」こそ、君主のいる民主制国家という問題を考え抜いた立派な解であって、天皇の社会的機能を考えもしない原理だけの天皇制反対は余りにも単純すぎる、など。
 ということで、内田氏はいいます。天皇制を廃止しろというが、じゃあそのあとに、どんなアクターに天皇の機能を代行させるのか、その道筋を立てない廃止論は無責任だ、と。そんなわけで、昔から私は、天皇制民営化に賛同しているのです。(続く)

すばらしきゴリン

 これほどの状況下で、まだ五輪中止を決められないでいます。
 あの年、開戦すれば敗戦必死と予想しながら、中止という一言を、天皇は自分は言い出す立場にないと逃げ、陸軍と海軍は、相手が言うならともかく自分からは言えないと、互いに中止責任をとらないまま、それでも準備だけは進めているうちに、気がつけば引き返せない開戦予定日が来てしまったのでした。
 それにしても、宣言を出しては小出し延期で切り上げて波を招き、まんえん防止も緊急事態再宣言も出し惜しんではまた効果なく延期していつうちに、悲惨な医療崩壊を招き寄せてしまいました。現場の方々はやりきれない気持ちでしょう。
 思えば、楽観的な現状把握と見通しのない作戦で始めたガダルカナル戦では、敗退の都度限定的な兵力を逐次投入して再敗退を繰り返し、遂には撤退もできずに島内を敗残彷徨して餓死してゆくという悲惨な事態に陥ったのでした。
 5百人の看護師を集められるが、それは看護師が足りずに入院を受けられない病院にまわさずに、ゴリンにまわす。ワクチンが別途確保できるが、それは未接種の医療関係者にまわさずに、ゴリンにまわす。国民の命より優先とは、ゴリンとは、何とすばらしいものなのでしょうか。

シーンとストーリー8

 「狂者に責められる自罰の祭儀のためには、~家庭の地獄をますます悪化させ」(磯田光一)ることが必要で、そのためには祭壇に捧げる生贄が一人ならず必要だった。もし書くことがこのように書くことであったとすれば、書くことを賞賛することは、このように書くことを、つまり他者を生贄として地獄の祭壇に引き込むことをも賞賛することになるでしょう。しかし、「家庭の」地獄といえどもすでに「あいつ」も「子ども」もいるわけで、もっと進んで、「世間に責められる自罰の祭儀のために社会の地獄を悪化させる」作家がいてもおかしくないし、現にいるわけです。

 とはいえ、私はここで、書くべからざることを書くことを「世間の制約からの自由」ゆえに高評価することを、批判したり非難したりしようというのではありません。自らも周りも世間も犠牲に捧げて顧みない野心にとりつかれた人々は、凡人がとやかくいう域を越えています。
 一方ここは、もちろん凡人の下世話なお話で、こんなことをいって誠に恐縮なのですが、島尾が「すごい」のなら、ベン・ジョンソンも「すごい」といっていいのではという、たったそれだけのお話です。あ、ここへ来て、気がついたのですが、ベン・ジョンソンなんて、もはや知らない人が多いでしょうね。驚異的な記録で100メートル金メダルと思ったら、検査に引っかかり、弁明が認められずに、神聖な五輪を汚したとして金メダルを剥奪され、一方同じくひっかかりながら「知らなかった」という弁明が認められたカール・ルイスが、繰り上げ金メダルとなったのでした。

 作家なら妻を狂わせても(狂わせたがゆえに)芸術院会員になれるし、アル中やヤク中故に素晴らしいミュージシャンもザラにいますが、国際オリンピック委員会は、それらとは比べ物にならない巨額な金儲けのために、選手を生贄に捧げて、「公平」で「神聖」で「純粋」な勝ち負けだ、という幻想を維持するのです。
 まあ、そんなことは凡人の余計な話で、0.01秒のために生涯を賭けるような驚嘆すべき狂人(並の凡人ではないというだけの意味です)の方々は、止めても止まらないでしょう。ただ、全身小説家は親友島尾を非難したという芸術院会員の年金は、いくらなのか知りませんが、「自罰の祭儀」ならぬ「自慢の祭儀」というか「五輪の祭典」は、このご時世に何と3兆円ですよ。「復興五輪」というなら復興に、「克服五輪」というならコロナ対策に使ってもらいたいものです。
 ということで、テープを切ったシーンを繰り返し放映し、金メダルに至るストーリーを作り上げて、3兆円の正当化をはかるのでしょう。(急に眠くなってきたので終わります)

シーンとストーリー7

 問題は、自らの地獄場を書こうとするとき、それが思わず罪を犯して落とされた地獄場ではなく、「書くために」自ら招き寄せた地獄場である場合もあるだろうということです。永山則夫のように「書く者」であったなら殺す者にはならなかったということが明確な場合は多分稀で、はじめから書くことと殺す(という程ではなくも罪を犯す)ことの境目が判然としないことも大いにありうるでしょう。
 「ミホに日記を見られた頃の島尾は自分の「業の浅さ」に小説家としてコンプレックスを抱き、生々しい手応えのある悲劇を家庭内に求めていた」(梯、以下同じ)。こうして島尾は、地獄に至る悲劇を自ら「求めて」、わざと日記を「見せた」のだろう、ということになります。

 ただ、この夫婦の場合は、単純ではありません。「ミホにとっても、自分が狂うことは状況を打開するほとんど唯一の道だった」。狂うことで出現させた壮絶な修羅場の主役となることで、「ミホは何をしても許される生来の地位を取り戻し、島尾は家庭内にこれ以上ない小説の素材を手に入れた」。島尾の一人芝居だったのではなく、シテとワキのドラマだったというわけです。

 けれども、「家庭内」だけではありません。もうひとり、不可欠だったのが「あいつ」です。書く「ために」、島尾は前もって「あいつ」と呼ばれる女性を性愛関係に引き込んで、修羅場の重要なワキツレ役をさせたのでないか。梯氏は、その女性についても、主体的な姿(役ではなく役者としての姿)を確認しようとします。 

 さらにいうなら、子どももいます。島尾の晩年に関わった女性が、島尾から打ち明け話をされ、どうしてそんなことを私に話すのですかと聞くと、島尾は、「いずれあんたはこのことを書くだろうから」と答えたといいます。だとすれば、娘のマヤこそ、「いずれ必ず書く」という宿命を父から背負わされていた筈であり、彼女は、一切の言葉を拒否することで、その宿命を拒否して主体として生きる道を確保しようとしたのかもしれません。

 何だか、ますます怪しい道に迷い込んだようで、一体何の話からこうなったのか、どう終わればいいのか、分からなくなりました。まあ、いつものことですが、今日はこれで。(続く)

シーンとストーリー6

  ワクチンの確保もならずコロナ収束の目処が立たないまま、それでも政府もIOCも強引に五輪を開きそうです。目標なく始まったので当然ながら収束しないこの話も、とにかく強引に強制終了することにしましょう。
 といいながら、早速また回り道ですが。

 島尾ミホを、聖なる狂女という「書かれた」客体に収めるのではなく、「見ること、書くこと」に憑かれた主体として捉え直し、「愛された妻でありたい自分と、傷を傷として描く作家でありたい自分、「書かれる女」と「書く女」、その間で引き裂かれた姿」を、広い重層的な視野と深い共感をもって出来る限りの調査を重ねて描き切った梯氏の大著は、大変読み応えがありました。
 しかしここは、この重い本について、それ以上のことを書く場所ではありません。それどころか、大変軽い取り上げ方をして誠にもって恐縮なのですが。

 島尾敏夫を高く評価した例えば吉本などからは、恥辱も罪も狂態も裏切りもその他書くべからざることを余す所なく書くことで、島尾は、世間的な一切の制約から「自由」な「書くこと」の極地に立ったと称賛されます。もっとも、世間の外もまた世間であるのが世の常であって、例えば文壇的な評価を得たいという野心は強く持っていたでしょう。もちろんだから賞賛に値しないということでは全くありません。ただ、例えばしかるべき文学賞を受賞して文壇に地歩を築きたいとしう野心や功名心を、ベン・ジョンソンがオリンピックの金メダルを獲りたいという野心とは別のものだと、もしいうなら、それは文学者の高慢というべきでしょう。世の中には、けん玉に憑かれた者もいれば小説に憑かれた者もいるわけです。(続く)