シーンとストーリー7

 問題は、自らの地獄場を書こうとするとき、それが思わず罪を犯して落とされた地獄場ではなく、「書くために」自ら招き寄せた地獄場である場合もあるだろうということです。永山則夫のように「書く者」であったなら殺す者にはならなかったということが明確な場合は多分稀で、はじめから書くことと殺す(という程ではなくも罪を犯す)ことの境目が判然としないことも大いにありうるでしょう。
 「ミホに日記を見られた頃の島尾は自分の「業の浅さ」に小説家としてコンプレックスを抱き、生々しい手応えのある悲劇を家庭内に求めていた」(梯、以下同じ)。こうして島尾は、地獄に至る悲劇を自ら「求めて」、わざと日記を「見せた」のだろう、ということになります。

 ただ、この夫婦の場合は、単純ではありません。「ミホにとっても、自分が狂うことは状況を打開するほとんど唯一の道だった」。狂うことで出現させた壮絶な修羅場の主役となることで、「ミホは何をしても許される生来の地位を取り戻し、島尾は家庭内にこれ以上ない小説の素材を手に入れた」。島尾の一人芝居だったのではなく、シテとワキのドラマだったというわけです。

 けれども、「家庭内」だけではありません。もうひとり、不可欠だったのが「あいつ」です。書く「ために」、島尾は前もって「あいつ」と呼ばれる女性を性愛関係に引き込んで、修羅場の重要なワキツレ役をさせたのでないか。梯氏は、その女性についても、主体的な姿(役ではなく役者としての姿)を確認しようとします。 

 さらにいうなら、子どももいます。島尾の晩年に関わった女性が、島尾から打ち明け話をされ、どうしてそんなことを私に話すのですかと聞くと、島尾は、「いずれあんたはこのことを書くだろうから」と答えたといいます。だとすれば、娘のマヤこそ、「いずれ必ず書く」という宿命を父から背負わされていた筈であり、彼女は、一切の言葉を拒否することで、その宿命を拒否して主体として生きる道を確保しようとしたのかもしれません。

 何だか、ますます怪しい道に迷い込んだようで、一体何の話からこうなったのか、どう終わればいいのか、分からなくなりました。まあ、いつものことですが、今日はこれで。(続く)