総資本の回収回路

 加藤典洋氏の文芸時評(朝日27日)によると、本田由紀氏がこういっているそうだ。現代のように、低収入の若者非正社員がおよそ3人に1人といった社会が成立しうるのは、彼らが生活の基礎面で親の庇護を受けているからだが、それは、企業が家族に生活保障面で依存していることであり、つまり家族が、社会や企業かから「食い尽」くされていうことだ、云々。本田は、そこから、現代の若者が自分を護るバリアを失った「むき出しの」日々を生きているというような方に話をもっていってるらしいが、読まないで何かをいうつもりは全くないので、その話はできない。
 それにしても、何らかの回路を使って家族の「含み資産」つまりは家族を「食い尽」くそうというのは、もともと「社会や企業」つまり総資本にとって、当然の既成路線に他ならない。
 総資本からすれば、庶民の「家族」なんてチョロいものである。例えば、何十年もの間会社に「貢献してきて」というか「収奪されてきて」というか、単なることばの問題だから好きなようにいえばよいが、とにかく会社に尽くしてきて、目出度く定年退職した人がいるとしよう。彼は、ようやくいま、退職金という少しまとまったカネと、人生残りの自由な時間とを、「自分の」手にできたと、夫婦で祝杯をあげたりする。しかし小心なあるいは堅実な庶民夫妻は、企業に尽くしてきた人生の代償である退職金を、「自分の」ために「浪費」するなんてことはとてもできない。とりあえずほとんどのカネは預金にまわし、つまりは企業で役立ててもらおうとする。何のことはない。総資本は、ただ「彼の」名前を証券とか通帳とかの上に記載するだけで、つまり「見せ金」だけで、実質のカネはちゃんと自分の領地に回収するのである。
 では、そうはしないで、「自分の」家を建てることにしよう。もちろん住宅ローン返済に当てたのでもいいが、いずれにしても、預金とは違って、少なくとも現実の例えば2世帯住宅が、「彼自身の」ものになったという実感がえられるだろう。しかしそれも、総資本からみれば、ありがたく寄付して頂いた以上の回収効果をあげる。
 例えば退職金で2世帯住宅を建ててくれれば、総資本にとっては大変ありがたい。わざわざ土地を買い社宅を建て維持管理をするといった手間は一切ないまま、若い労働者の住宅問題が解決し、さらに、わざわざ保育所を作り維持運営してゆくという手間は一切なしで、彼らを夫妻とも職場に引き出し拘束できる。総資本にとっては、親の家は無償で提供された社宅であり、親は無償で働く保育職員に他ならない。退職した時点で、一瞬「自分の」ものになると思った自由な時間は、こうしてたちまち回収され「食い尽」くされる。もちろん、ある時期がくれば、今度は逆に、家は無償で提供された介護施設となって、若夫婦は無償で働く介護職員になったりするわけである。
 贅沢はいえない。第一、家を建てた場合には、いわば登記簿に記載される名前が「見せ金」で、建てた瞬間から、実質的には総資本のものになるようなものだからである。ある年数が経って、2階にいた若夫婦が下に降りようとすると、それだけで彼らは、家主である総資本に、名義書換手数料(相続税)を払わねばならず、もちろんずっと家賃(固定資産税)を払い続けねばならない。なるほど家賃は格安だが、補修費も維持管理費も全てこちら持ちである。
 もちろん借家住まいでも全く同じであるし、家のことは、あくまで一例に過ぎない。とにかく、総資本は、隙あらば、いや隙などなくても、至るところで、庶民に「見せ金」として一時預けたカネや自由や時間を、あらゆる回路を使って回収するシステムを作り上げている。
 いま問題化している「低収入非正社員の家族依存」だけが特別なのではない。それもまた、新たに作り出された回収回路のひとつに過ぎない。
 しかしもちろん、「家族」という基本回路ゆえに、親世代も若い世代も、決して総資本に対する暴動を起こす気遣いはない。それどころか、たいていの場合はむしろ、子どもや孫に、また親に、カネや自由や時間を取られているという「ゆとり」を、近所で、困り顔を見せながらもそれとなく自慢したりさえするのである。