漱石 1911年の頃 30:何かと何か3

 原爆の日。「ナチスの手口を学べ」という副総理を問題にしない日本政府は、アメリカが核兵器を使用できなくなるのはまずいと、核兵器絶対廃絶の共同声明に参加せず。広島市長が、「威嚇によって安全と平和が守れるというのか」と批判。
 こちらは昔のことばかりで恐縮ですが、いよいよ問題の和歌山講演です。いよいよ、などという程のことではありませんが(^o^)、ともかく、有名な和歌山講演だけが、「〜と〜」という演題にはなっていません。
 けれども、ちょっと読んでみると、前半部分の「と」構図は、これまでとほとんど変わりません。同じく200字要約してみると、 
  現代日本の開化(前)(横着道楽) 11年8月15日、和歌山 
 社会があれば人は義務的な行動を余儀なくされる。開化の原動力の一つは、強いられてする仕事に払う活力をできるだけ節約しようという横着心によるもので、汽車電信自動車の発明などがそれである。しかし人は本来自己本位であり、強いられないのに積極的に活力を消耗したいという道楽心がある。文学、科学、哲学、その他、道楽の発現から余計なものを作り出す。この二つの面が錯綜して、現今の混乱した開化と云う現象ができている。
 ご覧のように、基本はこれまでと同じ、「職業と道楽」「他人本位と自己本位」の構図のままです。
 ところが、ここで漱石は、問題を転じ、全く新たな「〜と〜」を設定します。要点はごく簡単なので、もう200字要約はやめますが、
  現代日本の開化(後)(内発的開化外発的開化) 11年8月15日、和歌山
 「それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化と何處が違ふかと云ふのが問題です。若し一言にして此問題を決しやうとするならば私はかう斷じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内發的であつて、日本の現代の開化は外發的である。」
 これが、本題というか、この講演を有名にしている部分です。
 西洋の開化(一般の開化)は、大規模で積極的なものであるが、それは内発的に展開した自然な開化である。それに対して、維新以後の日本の開化は、外から無理押しされた、外發的な開化である。
 へそ曲がりでいうのですが、これ自体は、どうということはありません。ボイルもシャルルもワットもトレビシックもぬきに、汽笛一声最新式の汽車が突然走り出して、結構なことじゃないですか。もちろんタダではなく買わされるわけで、鉄道予定地のために伐り倒した大量の木をようやく処分したところで、レールの他に「スリーパー2万本」が要るといわれて高額で輸入してみると、何のことはない。枕木だか眠り木だか知らんが、ただの木材じゃないかっ!!(`Δ´)!! といったこともあったようですが、それでも、あちらさんの開発コストに比べれば大いに安上がりです。
 しかし、もちろん漱石は、そう単純には考えません。ロシアにたまたま勝って急に威張り出す夜郎自大の連中も困り者ですが、漱石はイギリス留学のトラウマが抜けないのでしょうか、良くいえば遠慮と謙遜、悪く言えば劣等感と自尊心です。「西洋人」は、シャクなことに、「體力腦力共に吾等よりも旺盛」だからかなわない。そんな連中が「百年かゝつて漸く今日に發展した開化を、日本人が十年に年期をつゞめて」やろうとしても、まともに太刀打ちできるわけがない。じゃやめればいいかというと、実にシャクなことに、西洋は「我々より強い」んだからしょうがない。シャクでも何でも、「涙を呑んで上滑りに滑つて行かなければ仕方がない」のです。
 ここで漱石は、「上滑り」の比喩に、お得意の「波」イメージ(後で取り上げる予定)を使います。強い西洋から新らしい波が次々と押し寄せ、「食客をして氣兼をしてゐる樣な氣持」のまま、苦労して何とか波に乗れたかと思うと、もう次の波が来てしまう。・・・ようやく何とかツイッターができるようになったおじさんが、え?今はフェイスブック?・・え?え?ラインって何?・・・てなものでしょうか。「斯う云ふ開化の影響を受ける國民はどこかに空虚の感がなければなりません。又どこかに不滿と不安の念を懷かなければなりません」。
 一方で漱石は、一応このようなことも漏らします。「それでは(そういう上滑りの)眞似をやめて、じみちに發展の順序を盡して進む事はどうしても出來まいかといふ相談が出るかも知れない。さういふ御相談が出れば私は無い事もないと御答をする」。おお、それがあるなら、早くいってくださいよ。と思わせておいて、ところが全く何もいわないまま、次の行からまたダメだダメだの話です。
 更に漱石は、シャクでも上滑りの波サーフィンをしてゆかなければならない話に続けて、不思議なことに、「是は學問を例に御話をするのが一番早分りである」と、そちらに向かいます。いまの学者は、「本當に自分が研究を積んで」内發的に進んで行くのではなく、西洋人の研究成果を僅かな歳月で理解吸収しようというのですから大変です。「外発的」な学問をやる「必然の結果」として、「神經衰弱に罹つて、氣息奄々として今や路傍に呻吟しつゝある」。まともな大學教授なら、大抵「神經衰弱に罹りがちぢやないでせうか」。
 で、漱石は、このように「學者を例に引いたのは單に分り易い爲で、理窟は開化のどの方面へも應用が出來る積です」というのですが、開化の分かりやすい例が、何故「学問」や「学者」なんですかね。
 大体漱石は「開化」をどういうものと捉えているか、もう一度、最初にあげた箇所をみてみましょう。開化の一つは「横着心によるもので、汽車電信自動車の発明などがそれである」。で、もう一方が、「文学、科学、哲学、その他、道楽の発現」から作り出された「余計なもの」である。これが漱石のいう「開化」だとすれば、何か抜けてないでしょうか。すぐお分かりのように、抜けているのは社会の変化です。少なくとも一般庶民にとっては、「開化」といわれて「わかり易い」例は、学者の学問などではなくて、例えば「散切り頭」でしょう。それは、横着心の現れでもなければ道楽でもありません。世の中のあり方が「一新」したことの象徴として、「文明開化の音」がしたのです。
 ちなみに、学者でも科学の世界などでは、この時代すでに「西洋人の研究成果を僅かな歳月で理解吸収」するだけでなく、進んで最新レベルの成果を上げつつある「学者」もいます。けれども、漱石は文学、それも、どういうわけか自国の文学ではなく、中国(漢文学)か西洋(英文学)の、つまり当然最初から大きなハンディキャップのある「学問」を専門とする「学者」になろうとしたのですから大変です。そして、英文学に決めて学者を目指し、「本場」に留学したのはいいのですが、そうなると当然、「日本人は西洋人でないのだから、〜食客(いそうろう)をして気兼をしているような気持になる」でしょう。「肉刺(フォーク)の持ちよう〜小刀(ナイフ)の持ちよう」から始まって、すべて「こっちで先方の真似をする他仕方がない」。ということで、まさに「神経衰弱に罹つて、氣息奄々として」帰国します。そして帰国後も、なお英文学という「本場」のある学問をやってゆこうとすれば、先方から寄せてくる波に次々と乗りながら、「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」でしょう。
 ということで、どうもこの開化の説明は、漱石自身のことと見れば「分かり易い」ようです。
 ちなみに、漱石がこの講演の原稿メモを書いているちょうどその時期(11年7月)、永井荷風は、開化で急速に変わり行く銀座について、こんなことを書いています。面白いので、ちょっと横道ながら、少しだけ拾い読みしてみましょう。
 「銀座界隈には何という事なく凡ての新しいものと古いものとがある。」
 「自分はいつも人力車と牛鍋とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中で一番成功したものと信じている。〜牛鍋の妙味は「鍋」という従来の古い形式の中に「牛肉」という新しい内容を収めさせた処にある。人力車は〜最初から日本の生活に適当し調和するように発明されたものである。この二つはそのままの輸入でもなく無意味な模倣でもない。少くとも発明という賛辞に価するだけに発明者の苦心と創造力とが現われている。即ち国民性を通過して然る後に現れ出たものである。」
 「こういう点から見て、自分は維新前後における西洋文明の輸入には、甚だ敬服すべきものが多いように思っている。」
 「明治の初年は一方において西洋文明を丁寧に輸入し綺麗に模倣し正直に工風を凝した時代である。と同時に、一方においては、徳川幕府の圧迫を脱した江戸芸術の残りの花が、目覚しくも一時に二度目の春を見せた時代である。」
 「現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。今過ぎ去ったばかりの昨日の事をも全く異った時代のように回想しなければならぬ事が沢山にある。有楽座を日本唯一の新しい西洋式の劇場として眺めたのも僅に二、三年間の事に過ぎなかった。われわれが新橋の停車場を別れの場所、出発の場所として描写するのも、また僅々四、五年間の事であろう。」
 「再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する。」
 「銀座と銀座の界隈とはこれから先も一日一日と変って行くであろう。丁度活動写真を見詰める子供のように、自分は休みなく変って行く時勢の絵巻物をば眼の痛くなるまで見詰めていたい。」

 「日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する」(荷風)。西洋が「百年かゝつて漸く今日に發展した開化を、日本人が十年に年期をつゞめて」やろうとしている(漱石)。
 もちろん、神経衰弱と癇癪の漱石に比べて、荷風は開化の見方が甘くノンビリ構えている、などといいたいのではありません。漱石は「開化」から社会を抜き、そして大逆事件にも無言のままで、専ら彼我の格差による「(英文)学者」の神経衰弱を、「現代日本の開化」の象徴例だとします。一方、この短い銀座点描の中にも「徳川幕府の圧迫を脱した」という一語を入れた荷風は、庶民による「輸入」の主体化を見ながらも、半世紀足らずで起こった大逆「圧迫」事件の衝撃を受け止めて、「現代日本の開化」そのものへの絶望の中にあります。「眼の痛くなるまで見詰めていたい」という最後の言葉もまた、もはや「見詰める」ことしかできない「現代日本の開化」への、そして自己自身への悲哀のことばなのでしょう。
 話を戻して、と思ったのですが、長すぎますので、今回はここで切っておきましょうか。(続く)