ラスト・サムライ

 めったに、いやほとんど映画は(映画館だけでなくビデオ、テレビでも)見ないのだが、勧められて「ラスト・サムライ」を、今頃みた。史実や時代考証を無視すれば娯楽作としてよく出来てるし渡辺謙がかっこいい、といったところが一般評らしいという程度の予備知識しかなかったが、確かにそんな映画だった。そんな映画というのは、「そんな風に見られるのだろうな」、という意味である。
 しかし、大村益次郎明治天皇はともかく、ラスト戦争が1877年で渡辺謙は参議ということだったから一応西郷などを借りているのだろうが、その肝心の主役が、正直どうも分からなかった。
 「高貴な野蛮人」の生活を体験するというのは、西洋では18世紀以来繰り返される旅行記のモチーフであって、そこには、失われた過去への郷愁や異文化への好奇心を通して、侵略的西洋文明の罪の意識が透けて見えるようになっている。その辺のところが、この映画では、トム・クルーズアメリカ先住民虐殺のトラウマを背負った軍人とすることで、一応説明されている。で彼は、ラスト・モヒカンならぬラスト・サムライという「高貴な野蛮人」が、誇り高く闘って滅んでゆく歴史に、悲哀をもって立ち会うわけである。
 だが、その滅亡シーンを身に迫るものとして受け止めるためには、前もって彼らの「高貴で野蛮」な生活なり生き方なりに感情移入しておかなければならない。
 おそらく、アメリカ人をはじめ外国人から見れば、冨士を頂く島国、湿度の高い山林、美術品のような甲冑を纏った武者軍団、魂の籠もった刀を使う武道、静謐で荘厳な仏教寺院、神秘的な天皇とその皇居、桜や雪で彩られる四季の田園風景、無表情の裏に情熱を秘めた従順な女たち、寡黙で無骨だが誇り高い男たち・・・などなどといった、「いかにも日本的オリエンタリズムのごった煮」から、何か分からないが「サムライ!」というエートスを感じとり、なるほどあれが「侍」という文字か、なるほどこれがジャパン・サムライの剣術なのか、と感動するのでもあろう。
 だから、われわれもまた、同様に素朴に感動すればいいのだが、どうしても余計なことが頭をかすめてしまい、感情移入が難しくて困った。
 第一、彼らは一体何をどうしたいのか。いや多分、髷と刀も捨てたくないし、何も変えたくないのであろう。それがつまり「ラスト」なのだろう。
 だが、それにしては、例えば「尊皇」である。この時代、尊皇というからには、どこかで原理主義的変革思想にイカれた筈であり、それに、激しい殺戮戦で功あって今参議だというからには、「ラスト・サムライ」どころか、会津藩士のようなラスト・サムライらに向けて、錦切れ大砲のひとつも撃った官軍の将の筈であり・・・。
 まあしかし、全ては余計なお世話であって、そんなことに気を回さずに、ケン渡辺のかっこよさを感じればいいのだろう。・・・・・でも、<かっこいい>か? 肝心のそこのところが、申し訳ないがよく分からなかった。
 ちなみに、さっき見た夕刊によれば、いまは剣道も世界選手権が開かれる時代らしいのだが、国別対抗戦の方式で行われたその試合で、これまで優勝を続けて来た日本が、初めて準決勝で敗退したとのこと。しかも、その相手が何と、アメリカ。・・・・・だめじゃん、サムライ。