異質性と多様性(7)異なっていられるために

 戻ると書いたが、もう少し。というか、もともと行く先のない行き当たりばったり(^_^;)。
 面倒だから、勝手にこうしておこう。何らかの状況/課題を前にしたときの対処/解決の仕方が予め共同了解されているとき、それを「文化」といい、その共同了解集団を文化集団ということにする。今日はカレーだよと母がいうのを聞いて子供たちがラーメン鉢を並べる家庭があったとすれば、立派な?文化である。
 さて、島民とロビンソンが、別に逆でもいいが、無関与に生きて行ける場合には、政治的に正しい対処(ポリティカルライト)は、さしあたり簡単である。島民が第三のロビンソンにそうしたように、近所の人はマイナーな鉢カレー文化を無視していればそれでよい。もちろん実際には、近所の人は黙っている筈がないのであって、だから、政治的正しさは運動を通して要求される。私の知人が『異なっていられる社会を』という本を出されたようで、申し訳ないがそれも私は読んでいない。いないが、おそらくそういうことだろう。ただ、現実の世界では、「口出ししない」つまり無関心無関与と、異なって「いられる」ということは同じではない。「いられる」ためには何らかの関与が不可欠の場合もあり、もちろんそういうことも、その本では取り上げられているであろう。だが、ここでは全て通り過ぎる。