アジアあるいは義侠について21:国のかたち

 先ず「多」です。
 「アジアは民族的固有性において、なかんずくその文化において多様である」(松本)。「多」あるいは「多様」というのは、全てが混沌と入り混じっているのではありません(そうなれば「一」になってしまいます)。「多」とは、それぞれ<異なって>いて<区別>でき、従って<数えられる>ものが、並存しているイメージです。では、多くの何が並存しているのでしょうか。
 松本的にいえば、それは、「民族」のようです。それぞれ「民族的固有性」ないしは独自の「文化」をもった民族集団が「多く」並存している、と。
 それに対して、中島氏は、「歴史的プロセスの中で構築した国民主権ナショナリズムを生かしつつ、国民国家における諸制度の漸進的改革を進めて」いく、といういい方をします。一応、歴史的には「国民国家」というものができているのだから、さしあたりはそれを活かしつつやってゆくべきだろう、といいことで、未だ国民国家としては未完成の国もあるでしょうが、ともかく「多く」の「国家」が並存している、と。
 松本のいう「文化」に傾く「民族」と、中島氏のいう政治体制中心の「国民国家」はもちろん違います。中島氏は、(以下は、面倒なので、氏のことば通りではありませんが)「ナショナリズム」が往々にしていわゆる「民族主義」的に解されることに反対します。民族とか「血と地」とか伝統とか、そういった自然性にナショナリズムを立脚させると、いわゆる右翼ナショナリズムがデカイ顔をすることになります。そうではなくて、フランス革命にも見られるように、ナショナリズムは、「国王の国家」から「国民の国家」への転換という歴史の中で堂々登場したものであって、だから本来、基本的人権をもった「国民」の「主権」確立を目指すリベラル派こそが「ナショナリズム」をいいうるのだ、と。誠にその通りですね。(琉球天皇のことは出さずにおきます)。
 そこで、次に「一」ですが、これが難しい。
 単純化して、「多」とは、互いに<異なる=同じではない>ものが<区別される>形で並存していることだとすれば、「一」とは、互いが<同じ>ものとして<まとめられる>ことを意味することになるでしょう。
 「アジアは一つ」。互いに<異なる>いくつかの民族あるいは国が、<同じ>アジア民族あるいはアジア諸国として、一つに<まとめられる>ということです。が・・・