漱石 1911年の頃 11:清朝と南朝2

 その前に、なぜ南朝が強調されるのでしょうか。
 いい加減な与太話ですが・・・帝国主義列強に戦く時代から伍する時代へ。天皇はもはや国内を鎮めるべく座っているだけではなく、いまや帝国軍を率いて世界に押し出そうという帝国神君に変貌してゆかねばならず、それに応じて、人々に「大君の辺にこそ死なめ」の覚悟を植え付けてゆかねばなりません。ということで、是非とも「天皇のために死ぬサムライ」のモデルが欲しい。ところが、モノノフ、サムライは元来自力で生きる連中ですから、公家天皇などないがしろで、時には自ら天皇になろうかという輩はいても、天皇のために命懸けで闘おうというようなモデルはなかなかいません。その点、水戸学公認の南朝武士はうってつけで、こうして、前回もいいましたが、例えば激動の時代を奔放に生き抜こうとした「悪党」という実像はそっちのけで、忠臣楠公国定教科書のスターとなります。
 そういえば、はじめての本格的近代戦争である日清戦争の際、ようやく山陽鉄道がそこまで延伸していた広島に大本営が築かれると、刀の収集が趣味だったという明治天皇は、わざわざ後醍醐の遺刀を携えて大本営まで出張ったという話は、多分ほんとうなんでしょう。汝兵士らよく忠に正茂の如く天皇のために死ね。
 ということで、(漱石の話から全く離れて申し訳けありませんが)03年から国定化した尋常小学校の修身書にも、わが天皇大元帥として登場します。もちろん天皇は戦場へは行きませんから、これは大演習に臨んだ勇姿ですが。
 とはいえ、前に見た「神格化」が進行中という話に重ねると、何か違和感を感じないでしょうか。
 巫術王と武力王の結合が天皇支配(だけじゃないのでしょうが)の祖形だったとして、近代日本の怪しさは、衰弱し切っていたこの古い王根を励起して、夷狄文明を攘夷論の延長上に取り込むという「復古=開化」の逆接手品に結実します。こうして、清朝の弁髪皇帝や纏足皇后を余所に見て、わが皇祖皇宗を継ぐ神は、攘夷の口も乾かないまま、率先して髷を落としお歯黒も落として、ズブズブの夷狄生活に入ります。儀式装束は別として、ご親影は西洋軍服に西洋夜会服。日常の団らん写真も洋間に洋服でおくつろぎ。明治は知りませんが、少なくとも後には、農神として重要なお手植え行事さえ、スーツズボンに革靴シャツの袖まくりという、何とも珍妙な格好を写真に撮らせます。
 こうして、大元帥としても、西洋軍服に身を固め、西洋種の白馬に跨って、八咫烏のとまる余地などありません。(続く)