漱石 1911年の頃 12:清朝と南朝3

 余計な流れで恐縮ですが、もう少しだけお付き合いを願います。
 前回の挿絵は04年のものですが、ちょうどここで問題にしている頃、つまり10-12年に、尋常小学修身書が改訂されます。で、その第二次国定教科書の挿絵(今回の上図)を見てください。ほとんど同じ構図ながら、降っていなかった雨が降っていますね。本文には、「ハゲシイアメノフルノニ、オンズキンモメサレズニ、〜(演習を)ゴランニナリマシタ」とあります。
 ついでに三枚目(今回の下図)、18年からの第三次国定教科書では、更に雨が激しくなります。それだけではありません。天皇の行動も、「ゴランニナリマシタ」から「おさしずあそばされました」に修正されます。
 以上3枚の図の元になっているのは90年の愛知大演習なのですが、重なる改訂には明らかな意図が働いています。晴れた日に演習を「ご覧に」なっていただけの天皇は、多分実際の天候を曲げて「雨に打たれ」たことにされ、さらに大元帥として全軍を「お指図され」る姿になります。天皇の神格化と大元帥化が同時進行してゆくわけです。
 そういえば、いま国際的に大きな話題になっている、不思議な髪型のあの人も、あちこちに出張っては、双眼鏡を目に当てたり、遠くを指さしたりしています。あれもまた、ただ景色を「ご覧になって」いるのではなく、軍事知識も経験も浅いまま、老将官たちに「お指し図をあそばして」おられるとのこと。願わくばとんでもない「お指し図」は抑えて、何とか冷静に周囲を「ご覧になって」頂きたいものです。
 閑話休題。その前に、気になることがあります、と書いたのでした。本題はこちらです。といっても大したことはありませんが、漱石が、問題の時期 11.6.25.に、笹川臨風という人に出した、贈呈書籍への礼状のことです。
 この人は多才な人ながら、3月に『南朝正統論』を、続けてこの6月に『南朝五十七年史』という本を出していますので、礼状は、多分後者へのものだったのでしょう。
 もともと漱石という人は、著書などを贈られる度に、すぐきちんと礼状を書く人だったらしく(見習わなくてはいけませんm(_ _)m)、この書簡も丁重な礼状ですが、「御高意のある所は承知致居候〜永く保存御好意に酬ひ可申候」という書き方は、どうなんでしょうか。平たくいってしまえば、「あなたのお考えはよく分かっております。頂いた本は永く保存し、(本をお贈り頂いた?)ご好意に酬いたいと思います」ということなんですが。
 最近は大変便利になって、2,3度クリックすれば、近所のどこの図書館に求める本があるかないかが分かります。まあ、歩かないから不健康になり、見つけた喜びも失われ、ということですが、ともかく問題の本も偶然近くの公立図書館にありました。巻頭の探幽の正茂像から始まって、南朝ゆかりの写真もたくさんあり、3か月で書いたにしては中身の濃い大著でしたが、最初と最後の頁だけメモして来ました。「余が南朝癖あり水戸学好なりしは由来実に久し」、「今歳春、南北正閏論の争あるや余は議論よりも史実の発展を持って時機を得たりとなし〜」というのが最初の「例言」で、本論は見ていませんが(^_^;)、最後の頁はこう終わります。「〜南朝五十七年の歴史は我が国民性の最も美しく発揚したる世なり。国史の精華が凝れる時代なり。南朝君臣の〜其霊其精神は〜士気を鼓舞し、皇基を守るべく国礎を固くすべきなり。南朝史は〜国民の教科書なり、国民の経典なり、国民須臾くも忘るべからざる聖書なり」。
 狂信的な空言ではなく「議論よりも史実」という姿勢であり、また「南朝癖あり水戸学好」というのも当時としては格別の姿勢ではないでしょう。けれども、中身を読まずにすぐ礼状を出したとしても、巻頭と巻末をパラパラしただけで、水戸学的南朝史を「国民の教科書、経典」にすべきだという立場だということはわかります。漱石は、皇国派がますます幅をきかせてゆく流れの中で、南朝正統論が果たす社会的役割を知らなかった筈はないでしょうし、少なくともそのような流れに承服しがたいものを感じていたとすれば、丁重な形式的書簡であったとしても、「御高意のある所は承知致居候〜御好意に酬ひ可申候」ではなく、もう少し別の書き方があったのではないか、と思ったりするのですが、勝手な勘ぐりでしょうか。
 さて、1項3回という勝手な設定にこだわり、無理に図像などを入れて膨らませただけのこの項はこれで終わります。教科書挿絵への言及は、もちろん文字かせぎの横道に過ぎません。もしもここで、本格的に図像学的な?検討をしようというのなら、挿絵の天皇も、過酷な雨など物ともせず「御頭巾も召されずに」野戦に参加した「勇ましい御姿」というだけではなく、というか、それよりむしろ、御頭巾もなく過酷な雨に打たれる「おいたわしい御姿」と見るべきなのであって、おそらく西洋語には翻訳不能なその「いたわしさ」にこそ、西洋王ならぬわが天皇の本質がおそらく顕れているのでしょうが、そういう領域にはここでは入りません。
 あるいはまた、もしもここで、本格的に漱石天皇制ということを考えようというのなら、例えば、漱石にとっての天皇制とは「坊ちゃん」の清です、と、私なら始めるでしょうが、漱石についての論者や研究者はゴマンといますので、その程度のことは必ず誰かが書いているに違いありませんし、それについても、ここで突然勝手な断定をしただけで、次に移ります。(続く)