漱石 1911年の頃 26:食堂車と人力車2

 「行人」の、南海鉄道の食堂車で昼食をとる場面です。もっとも小説には「南海」という名はありませんが。
 「翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯をやって御覧なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注いだりする女をよく心づけて見た。しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった。」
 「汽車で立った」とありす。「行人」が新聞に掲載された時には全線電化されているのですが、漱石自身の講演は11年8月ですので、11月の電化にぎりぎり間に合わず、汽車に乗ったのでした。
 ちょっとここで、Wikipediaの「食堂車」の一部を引用します。
 「鉄道国有化後も存続した日本の私鉄で初めて食堂車を連結したのは、南海鉄道(現・南海電気鉄道)である。
 同社は電化以前の1906年に一等・喫茶室の合造客車を製造し、梅田水了軒に喫茶室の運営を任せる形[55]で、大阪 - 和歌山間の急行列車(浪速号・和歌号:1日2往復)にて運転開始している。〜汽船との競合が〜存在していたことから、食堂車をはじめとする積極的な接客サービスの展開を受け入れやすい社内状況にあった[57]。
 この車両は1907年の南海線電化完成時に喫茶室の営業を終了し、その後1917年に廃車となったが、〜1924年に〜この一等・喫茶室合造客車のコンセプトを踏襲する形で、〜日本の電車では初となる食堂車〜が製造された。これは手荷物室・特別室(特等)・本格的な厨房を備えた食堂の合造車で、食堂に日本の鉄道車両としては初となる扇風機を設置、さらに一部の車両ではこれも日本初の車内でのラジオ放送サービスまで試験的に実施された[58]。〜実際の食堂営業期間は画期的な20m級鋼製車である電9系の就役開始もあって僅か5年と短期間にとどまったが、その豪華な設備と先進的なサービスは長く語り継がれ、また後年の特等の廃止に当たっては反対運動まで行われるほどの好評ぶりであった[59]。

 ということで、南海の食堂車は画期的なものだったようですが、ただ、この記述では、汽車時代と電車時代と二期に分かれているうち、汽車時代は「1907年の南海線電化完成時」までとなっていて、漱石が乗った11年にはもはや食堂車はなかったように読めます。上の引用中の数字は出典の注ですが(→実際の頁)、研究者ではありませんので、それら文献を探して確認するなどいったことは一切しません。が近所の図書館に行ってみると、書庫に、『南海鉄道発達史』という、南海鉄道(当時)自身が1938年に発行した本がありましたので、本家の方を見てみましょう。
 その前に、その本の巻頭の文に、環状線もまだない時代の関西私鉄の心意気というかデカい態度(^o^)がよく表れていますので、ちょっと横道ですが、紹介しておきます。ただし、旧字は変更します。
 南都大阪を東西に区分して白路一線都心を南北に走れる御堂筋の新装成って其の両端に巍然として相対するもの、北は省線梅田駅であり、南は難波駅南海ビルデヰングである。両駅は実に大阪の前後の玄関を成すものにして、地上のあらゆる連絡は素より更に快速地下鉄道を以て完全に連絡してゐる。
 さて、問題の、喫茶車両の営業時期ですが、細かいことは省いて整理すると、
 ○汽車時代 08年4月〜11年11月(電化により廃止)
 ○電車時代 24年7月〜29年8月(運輸力増強のため廃止)
ということのようで、これなら、「朝の汽車で立った」一行が「狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った」という『行人』の記述は、11年8月の漱石の実体験によることが了解できます。
 「食堂で昼食を食った」とあるように、南海では「喫茶室」と呼んでいますが、実質的には食堂です。「簡易なる西洋料理と和洋飲物」を提供したというのですが、どんな料理だったのでしょうか。ちなみに、カレーライスやトンカツなど、いわゆる「洋食」メニューは、この時代には大抵既に存在しています。それでも、西洋料理は「当時まだ高級料理視せらるる時代の事とて忽ち経営困難に陥」って、早くも11月には、当初の水了軒委託から直営に切り替えたとありますから、折角の食堂車のハイカラな西洋料理は、あまり高い評価を受けなかったようです。
 それより乗客の評判を呼んだのは「喫茶室主任」です。「これは実に当社の独創であって、洋装の女「ボーイ」が「サービス」に当り、大いに世の賞賛を博した」、と、上の本でも自画自賛しています。役員が直接面接選考して、「教養あり容姿端麗なる婦人」を特別に採用し、洋装で接客に当たらせたということで、「間もなく「美人櫻」の好評を博した。食堂車をブッフェと呼ぶやうな超ハイカラ振りであった」。
 ただし、「当時社外は勿論南地花街にても洋装美人の評判は非常に高かった」というだけに、「喫茶室主任」を「女給」と間違われないよう、南海では大変気を使ったようですね。「喫茶室主任心得」なるもので、「温雅貞淑」にふるまい、決して「軽挑の風あるべからず」、と細かい注意をしています。またまた横道ですが、その他、特に面白い箇所を抜粋して紹介してみます。
 其四 御乗客中主任を給仕と誤認し、之に相当する言語動作を以て遇せらるる事あるも、これに抗弁し若くは不穏当なる声色を示すべからず。此際唯温淑なる態度を以て高尚なる気品を保ち、御乗客自然の了解に任すべし。
 其五 〜若し酒気を帯び又は品性陋劣なる御乗客が卑猥なる談話を仕向くる時は、唯知らずと答ふるか或いは静かに避け、決して談笑せず端粛なる姿勢を失うべからず。
 其七 婦人の嗜として化粧を施すは奨励するも、厚化粧に陥り下品なる容姿は厳禁とす。亦頭髪は必ず最新式束髪たるを要す。

 ところが、「教養ある喫茶室主任」であって「女給、給仕」ではない、と強調するのですが、やっぱり乗客の方は「品性陋劣」というか、「主任を給仕と誤認」するのですね(^o^)。『行人』の岡田も、「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪がいますぜ」などといいます。
 といわれて食堂車へ行った漱石いや二郎も、料理などそっちのけで、「皿を運んだりサイダーを注いだりする女をよく心づけて見た。しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった」、と、やっぱり「器量」しか見ない上に、辛口の評です。ま、漱石は田舎者嫌いですからね。
 けれども、もしかするとそれだけではないのかもしれません。前回触れたように、岡田の「細君」であるお兼さんは、「父が勤めていたある官省の属官の娘」で、「まだ娘盛」の頃から知っているのですが、結婚話を聞いて二郎は、「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪下りまで引っ張って行くなんて」、と悪口をいいます。「下卑た家庭に育った」娘は「あんなもの」にしか見えなかったのでしょう。ところが、新婚家庭を訪れ、「岡田夫人として改まって会って見ると」、「大変好い女」であったことに気づきます。「態度は明瞭で落ちついて、どこにも下卑た家庭に育ったという面影は見えなかった」。「眼の縁に愛嬌を漂よわせるところなどは、自分の妹よりも品の良いばかりでなく、様子も幾分か立優って見えた」。二郎はお兼さんと話しているうちに、「これなら岡田がわざわざ東京まで出て来て連れて行ってもしかるべきだという気になっ」て、「自分と同階級に属する未知の女に対するごとく、畏まった言語をぽつぽつ使った」だけでなく、岡田に対して、「好い奥さんになったね。あれなら僕が貰やよかった」などとまでいい出し、「冗談いっちゃいけない」、「だってあなたはあいつの悪口をお母さんに云ったっていうじゃありませんか」と、笑われる始末です。食堂車には「なかなか別嬪がいますぜ」という岡田とは違って、二郎には、「給仕」のような「自分と同階級に属」さない女性を、「別嬪」とか「器量」よしと見ることのできる目が備わってはいなかった、ということだったのかもしれません。(続く)