漱石 1911年の頃 27:食堂車と人力車3

  *(先日15日の記事で勝手に引用言及させて頂いた藪野さんから、コメントを頂きました。「こころ」の人物年令や家の間取りについて興味を持たれた方は、コメントをご覧の上、藪野さんのサイトをご訪問ください。)
 さて、漂流ばかりが長くなってしまいましたので、そろそろ終わりに近づけます。が、この項は人力車と書いてしまいましたので、一応何か付け足さねばなりません。
 問題にしているのはちょうど百年前のことですが、ちなみに更に百年前のナポレオンのロシア遠征では、軍装に鉄砲を担いで往復でフルマラソンの150倍!の距離をひたすら歩き、戦闘以前に疲労困憊と飢えと寒さで、帰り着いた時には80万近くいた兵士が2万余りになっていたといいますから、実に大変なことです。それから百年、人類は「進歩」して、兵士も楽になっています。わが「帝国」では、大陸での鉄道支配権の拡大と、国内での鉄道国有化の強行によって、全国に連隊を配置して国内治安の拠点とする一方、一旦事あれば、必要な連隊に出動命令を出し、鉄道で軍港に集結させ、汽船で海を渡って港からまた鉄道で戦場へと運ぶという、軍事動員システムが完成しています。ただ戦場では、やっぱり「歩兵」として、歩きに歩くのですが。
 ということで、鉄道国有化のすぐ後に和歌山にも歩兵連隊が誘致されるのですが、すると市会で、最近落ち目の「代表」から聞いたような声があがります。「軍隊には慰安が必要。兵営ができたからには公娼施設を設置すべし!」。こうして市会の会派と地方紙が賛否2陣営に分かれて激論をくり返し、結局置娼派が勝って、何度も置娼決議が可決されます(ただし知事が不認可)。で、この2陣営の対立が、前にも触れた和歌浦開発を巡る対立にも対応します。古くて新しい、観光開発の問題ですね。
 ところで、これらの問題で激しい論争を繰り広げる2陣営を前にして、中流以下庶民の支持は、置娼推進派で和歌浦世俗開発派の側に集まったようです。置娼反対というが「上流階級の旦那方は芸者でお遊び、インテリ先生方は耶蘇かぶれのきれい事。しかし我々庶民は芸者は買えず、偽善者の説教など聞く耳もたぬ。庶民の遊べる公娼施設大賛成」。「旦那方は別荘地の俗化が心配で、先生方は万葉風光の破壊がご心配。しかし我々庶民には別荘など無縁だし、風景を放置してどうなるものか。海水浴場でも水族館でも何でも作って、一帯をにぎやかな遊園地にすれば、観光客も集まり金も稼げる。庶民の遊べる和歌浦開発大賛成」・・・といったようなことだったのでしょうか。
 このあたりのことは、重松正文『大正デモクラシー研究』(02)が、和歌山の地方新聞資料を丹念に調べて、対立を背後で支える社会階層や地域や経済関係なども含め、時代の地方政治状況を詳しく伝えてくれていますが、さて、では、大阪朝日のスタンスはどうだったのでしょうか。漱石は、僅かな滞在時間を割いて、新和歌浦開発のトンネルを見に行き、観光開発の象徴であるエレベーターにも乗り、「無粋な檻で昇ってみたが山上は案外貧相だった」と、多分そんな感想をもったようですが、といってエレベーターや観光開発に憤慨するといった風でもありません。また講演終了後、朝日がどんな「地方名士」を集めたのか詳細は分かりませんが、当時の新興産業界の代表である「綿ネル氏」らとの宴席に、断り切れずに出席して、芸者踊りを見たりしています。漱石の方から和歌山へ行ってみたいと申し出たのだとはいっても、特にこの地方都市の振興や開発のあり方などに関心があるわけでもなく、その点でも「普通の」の文士だったのでしょう。
 さて、「現代日本の開化」の時代、今や全国に線路が張り巡らされて、汽車が通り、電車も走り、さらに国産自動車も現れ、飛行機も飛び始めています。これで人々は、足に頼らなくてもよくなったようですが、ただもうひとつの発明品である人力車は、足が頼りながら、至るところを駆けています。
 先に、「行人」は鉄道時代の小説だなどと、いい加減なことをいって冒頭部分を引用しましたが、実は「梅田の停車場を下りるや否や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥を雇って岡田の家に馳けさせた」、と、駅を出てすぐ「俥」、人力車に乗り換えています。嫂と二人で和歌山へ行くクライマックスでも、行きは電車ですが、一夜を過ごして和歌浦に帰るシーンでは人力車が効果的に使われます。「行人」は、鉄道と人力車の時代の小説と言い足しておきましょう。
 さて、漱石にとって和歌山や和歌浦は、小説の舞台としての関心だけで、いわゆる開発とか風景保全とかも、基本どうでもよいことだったのでしょうが、例えば、田辺で神社合祀による環境破壊に身体を張って抵抗中の南方熊楠は、もちろん和歌浦開発にも強く反対します。ところが田辺というのは、結構遠いのですね。
 「行人」連載の13年、来日した孫文が、知音南方熊楠に、かつて和歌浦で旧交を温めたようにまた会うことを申し出ますが、熊楠は断ります。地元での活動が大変だったからでしょうが、和歌浦までの移動が身体的に大儀だったこともあるでしょう。
 商都大阪と繊維産業都市和歌山を結んで電車を走らせ、女性がサービする豪華食堂車まであった南海鉄道も、もちろん和歌浦開発には大いに関心を寄せ、線路を和歌浦まで延長するか路面電車を抱き込むか模索しますが、ところが路面電車の尽きるところから先はというと、南海も他社も国鉄も、線路が全くありません。熊野詣の道を辿る徒歩旅行か、それとも、一昔前(98年)に田山花袋が半島を一周して「月夜の和歌の浦」に着いたように、船で海路を辿って行くか。
 旧友孫文の要望にも熊楠が田辺を出ることがなかった同じ年に、柳田国男は、忙しい日程をやりくりして、自ら田辺まで会いに行くことにします。で、どうしたかというと、何と人力車で行ったのでした。どこから乗ったのかははっきりしませんが、熊楠の側からも柳田の側からも、人力車で夕方着いたことは資料的に確認できます。現在では特急1時間余りの距離ですが、今とは道路事情が全く違います。熊楠ゆかりの藤白神社(王子)からは、険しい山道もあり、流石に一部は降りて歩いたようですが、とにかくすごい車夫の脚力ですね。
 そんなわけで、もしも漱石大逆事件に強い関心をもっていて、万一その関心から和歌山の地を希望したのだとしても、大石ゆかりの新宮はもちろん菅野のいた田辺までも、足を伸ばすことは大変だったでしょう。もちろん講演でも、漱石は事件には全く触れません。もし口にしていればどうだったでしょうか。上記の置娼派は、「娼妓を不道徳というが、最大の不道徳である大逆犯が本県から多く出たのは、本県に公娼制度がないからじゃないか。サーサー何と返答する」というような、全く「論理的脈絡」のない扇動(重松)で聴衆を沸かせたりもしたそうですから、漱石は触れなくて賢明だったかもしれません。
 あちこち寄り道話ばかりしてしまいましたが、実際のところは、漱石は最初から、鉄道で行けない田辺や新宮のことは頭になく、高野山から伊勢を回って帰るコースを考えていたようです。「行人」の主人公もまた、友人と同じそのコースを旅するつもりだったのですが、漱石は自分の病気、小説の主人公は友人の病気で、その計画も実現されないままに終わるのでした。(続く)