帝国の慰安婦:安堵の共同性8

 「品のいい別嬪の奥さんと娘さんがいた」小屋を尋ねてみると、「思春期で胸も発達したお嬢さんが、まる裸で暮らしていたのです。小屋の暗がりに目が慣れてくる頃には娘さんは物陰に隠れてしまいます。」「奥さんは、乳房もあらわなほどボロボロに破れた服をまとい、腰のあたりに〜ジュート袋の切れ端を申し訳程度にあてていました。」
 この哀れな一家は、このまま餓死してしまったのでしょうか。あるいはもしかして、少女が苦界に身を投じることで、親子ともども生き延びたのでしょうか。(拉致されたか自らドアを叩いたかなどは、もちろんどうでもよいことです。)
 何世紀にもわたって、西欧人の奴隷商人の手で、アフリカ大陸から新大陸に強制連行された黒人奴隷たちは、白人たちの農園で苛酷な奴隷労働に従事させられたのでしたが、例えばブラジルでは、1888年に流石に奴隷制が禁止となり、代わって移民が誘致されます。大西洋を渡る代わりに太平洋を渡り、アフリカ大陸の代わりに日本から。奴隷商人に代わって国策植民会社、奴隷船に代わって移民船で、黒人奴隷に代わって日本人移民が、ブラジルに送られたのでした。
 ブラジル移民は、その後戦争の影響もあって中断しますが、戦後すぐにまた再開されます。
 聞いて極楽 来てみりゃ地獄 
 落ちるなみだはアカラ川

 もちろん、苛酷な生活に耐え、後に経済界や政界で活躍する成功者も出ます。しかしまた、上記の親子も「地獄」に落ちた移民の姿なのでした。(冒頭の引用は、岡村淳『忘れられない日本人移民』、歌は、遠藤十亜希『南米「棄民」政策の実像』より。)
 しかし−と、誰かがいうでしょうか−、国の責任だ、棄民政策だ、などというのは当たらない。たしかに国は「関与」はした。交渉し認可し補助金を出し募集し送り込んだ。大いに関与した。けれども、「強制」的に船で連行したのではない。移民たちは、みな、自ら募集に応募し、船に乗り込んだのだ。「関与はしたが強制連行はしていない」。(続く)