消えた「移民」1

 暗いできごと理不尽なできごとがありすぎて、「思う壺自閉」の昨今です。
 暗いできごとといえば、ヨーロッパでの「移民」排斥もそのひとつですが、あちらでは排斥される人々の多くが旧植民地からの移民であることが、問題を複雑にしているようです。
 ところで、あちらで「植民」と「移民」といえば、例えばフランスとアルジェリアの間の話になりますが(以下、面倒なので、「殖民」ではなく全て「植民」にします)、こちらでは様子が違うようです。少し前にたまたま見た「ブラジル移民」を振り返るTV番組でも、記憶の中の「移民」に関する資料館や資料展などでも、「移民」といえば、普通、ハワイとかブラジルとかの話であって、韓国朝鮮などなどとの間の人の行き来関係はほとんど含まれません。おそらく、「植民」とか「植民地」といった話題は避けて、「移民」といえば日系人の活躍といった明るい話題だけにしておきたい心理が働くのでしょう。
 1891(明治24)年、大臣となった榎本武揚が外務省に「植民局」を設置しようとして反対論にあい、おおよそこういうことをいいます。「反対するのは、植民の字義に拘泥してその本義を解せないからだろう。世の人々は、植民といえば、海外に属地を求め人民を移してその地を本国に隷属せしめようとすることだと思って、植民局新設は軽躁無謀だといったり、外交上他国の感情を損うのじゃないかと杞憂したりする。しかし元来植民というのは、必ずしもそういう意味ではない。内国の貧民が出稼ぎ労働の契約で一定期間渡航移住する移民、すなわち「Contract emigrant(定約移民)」に対して、海外未開の地方に永住して開拓殖産に従事しようと移植する者、即ち「Settled emigrant(定住移民)」というべきものを、前者と区別して「植民」という事が少なくないのであって、わが外務省の意もそこにある。だから、「植民」という語を使っても何ら問題ないのだが、誤解されても困るから、暫らく「移民局」ということにする」、と。
 蝦夷以来、窮民の開拓植民に熱心な榎本武揚には確かに、「人民を他国に移して後にその地を本国に隷属せしめようという」、いわば「侵略的植民」の意図はなかったでしょう。しかし、「海外未開の地方に永住して開拓殖産に従事しようと移植する」「定住移民」を「侵略的植民」から区別できるのかどうかとなると、結構難しいものがあります。例えば、後の「満州移民」では、日本人の入植によって、現地の農民が農地はもちろん家まで取り上げられるようなことが起こります。では「未開地」の「開拓」ならいいかというと、アメリカの西部開拓でも明かなように、それもまたゴマカシですし、「買い上げ」なら問題ないかというと、朝鮮半島でもアルジェリアでもパレスチナでもどこでも、大抵それです。そのように、「定住移民」と「侵略的植民」の区別は難しいものがありますが、それだけでなく、「定住移民(永住移民)」と「出稼ぎ移民(定約移民)」の区別もまた、簡単にはできません。
 さて、はじめに述べた一般的な用法での日本からの海外「移民」は、「元年者」ということばがあるように、早くも明治元年(というより維新前)から始まっていますが、この時のハワイ移民や以後の中南米移民でも、集団的なものについては、少なくとも「押し掛け侵略」的な植民というよりは、むしろ受け入れ側からの強い要請を受けてのものでした。といっても交流とか友好とかいった話ではなく、要するに相手は、低賃金労働者というか、端的にいえば奴隷的労働者が欲しかったのです。
 ブラジルでは、1888年奴隷制度廃止を行ったためにコーヒー園などの農業労働者が不足し、イタリアなどから移民を入れても、奴隷時代と同じ苛酷な労働と環境で逃亡や反乱が起こる、ということで日本から労働者を受け入れようとします。一方こちらでも、前述の「移民局」設置、公使館開設、植民会社設立などの動きが進み、ただしいろいろスッタモンダもあって、最初の移民が実現したのは1908年のことでした。
 それにしてもしかし、奴隷の後釜を求めているところへ行ったのですから、実にたまったものではありません。片道切符を支給されて渡ってみれば、夢見た世界とは大違い。貧窮極まる生活環境と苛酷極まる過重労働の日々に、話が違うと抗議しても帰せと叫んでも術もなく。ここから苦闘の日々が始まります。
 それでも、助け合いながら一歩また一歩、森を拓き生活を立て子どもを育て学校を作り産を興し、何より信用を築き尊敬を集め地位を得てやがて経済や政治その他各界のトップ人材を擁するまでに日系社会を築き上げてゆくという偉大な「日本人の物語」。このような、辛酸苦労に始まり大成功に終わる、典型的な「移民○十年史」が、たまたま私の見た番組や展示会の基本コンセプトのようでした。確かに、それはそれで誠に頭の下がる個人史であり社会史であって、敬意を表するに吝かではありません。「進取の志」をもって「海外雄飛」した移民一世以下、その辛酸労苦を忘れずに志を受け継ぎ世代を追って刻苦精励して繁栄を築きあげた成功日系社会が、自らの架けた両国の間の「夢の架け橋」をさらに大きな互恵的経済交流に発展させてゆくといった期待が、スポンサーや協賛援助を呼び寄せもするでしょう。
 ただ、そうなると、このような苦労成功物語のコンセプトに合わない歴史事項が消えてゆくのはやむをえません。
 (どうということのない話ですが、長くなったので切ります=続く)