帝国の慰安婦:安堵の共同性15

 私としたことが、堅気の方相手に、出過ぎたことをお話ししたようです。全てがアイマイだとか失礼なことをいいましたが、みなさんの世界はそれはそれでよろしいのじゃないでしょうか。曖昧なまま談合示談でごまかしごまかされ、弱者少数者を犠牲にしながら、適当に流れてゆくのが平穏と感じられるのでしょう。韓流ブームから嫌韓ブーム、反中嫌中から商売繁盛、輪廻転生南無阿弥陀仏。ネットでチョコチョコ鬱憤晴らしをしてみても、鬼畜米英チョコレート、てなもんです昔から。 
 そこへ行くと、私らの世界は窮屈でして。謝るのも命がけ。誰が何を謝るのか、誰が責任を取るのか、それがアイマイな手打ちなんてものは、ありやしません。
 指詰めですか。すぐそれですねご質問は。堅気の方々にどういうイメージをもたれているかは分かっておりますが、あれも「決める」ということなんです。将棋で「詰め」というでしょう。逃げない、きっちりと詰まった、逃げる手、凌ぐ手はもはやありません、だから「ありません」というのが決まり台詞になっているのです。負けは負け、きっちりと責任が決まる。それが「詰み」であり、そして「詰み」を認めること、「詰み」をきっちりと引き受けることが「詰める」というころなんです。
 「関与はあった。関わりも与かりもしなかったとはいわない。謝罪はする。しかし関与の責任者を追求するつもりは全くない、というか責任者なんていない」、と、まともな謝罪もしないまま、「今金を付けて謝罪した以上、もはや今後は謝罪しない、子孫にさせない」なんていうのは、全くもって厚顔の極みとしかいいようがありません。私どもの世界じゃ、こんなものは謝罪でも何でもありません。
 ただ、そういう点からいえばですね。「もはや謝罪しないために今謝罪しておく」なとという厚顔な輩よりは、はるかにマシであること間違いないですが、かといって、「とにかく悪いことをしたのだから、迷惑をかけたのだから、謝り続けるべきだ」というだけでは、やっぱり同じ素人さんの世界を感じますね。もう一度いいますが、手打ちというのは、双方が「共に」、これが理不尽だ、ここに責任がある、彼が責任者だ、ということをきっちりと認めること、決めて動かさないこと、責任者を「共に」「詰める」ことなんです。私らの世界では。それがいいことかどうかは、分かりませんがね。
 え? でも身代わり責任者なんてこともあるのじゃないか、といわれるんですか。指詰めとか身代わりとか、偏見イメージといいたいところですが、それについては、またお話しいたしましょう。(続く)