帝国の慰安婦:安堵の共同性14

 「私たちの子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」(安倍)。 失礼ながら、何いってんですかね、このひとは。これも入れ替えてみれば、ほんとの意味が分かります。「彼らの子や孫に謝罪要求をさせてはならない」。彼らの子孫に命令しているのです。お前たちの子孫は今後もう何もいっては「ならない」。笑わせちゃいけません。こんなものは、謝罪にも和解にも手打ちにもつながりやしません。
 さっきもいいましたが、私らがいう手打ちは、「何が」「どう」理不尽であったのか、ということを、きっちりと「双方が共有する」ことです。「これが、こう理不尽であった」、と双方が認めることなしに、きっちりとした手打ちはできやしません。。ところが、堅気さんはそこが全くアイマイなんです。だから、「申し訳ない」と謝っておきながら、後から「世間を騒がせたことを謝ったのであって、相手に頭を下げたつもりはない」などという。示談になったとたんに和姦だったと開き直ったりもする。戦争行為を謝っておきながら、「侵略」という言葉を教科書に書いっちゃいかんなどという。「きっりと」と謝る覚悟もなければ潔さもない。それが堅気さんの世界といえばそれまでですがね。
 もう一点。覚悟と潔さといいましたが、それは、「腹をくるる」ということであり、責任を取るということです。「何が」「どう」理不尽であったのか、ということは、「誰が」「どう」責任をとるののか、ということと同義です。(続く)