帝国の慰安婦:安堵の共同性11

 「それは分かりますよ。例えば、家族を暴走車に轢き殺されたとして、しばらくして、相手の運転手から、「いや申し訳けない、謝ります。示談金払いますよ。その代わり、これで手打ち、これで終わりですよ。今後は責任を問わない。これ見よがしな地蔵も移転してもらいます。いいですね」、なんていわれたら、誰だってカチンとくるでしょう。
 でも・・・そういってもねえ、もう70年以上も経っているんですよ。このまま、いつまでも謝り続けるしかないのでしょうかねえ。何とか仲良くできる方法がないのでしょうか。
 たとえば、真珠湾に行ったでしょ。それで、犠牲者の慰霊碑かなにかに花束捧げて、退役軍人の人たちをハグしたそうじゃないですか。だから、ほんとに申し訳けないと思うのなら、同じように、少女像に花束を捧げて、元慰安婦の方をハグして、そして、悪いけど別の場所に移してもらえないでしょうか、と頼んだらどうだったでしょう。いや、ハグなんか断られたでしょうかね。
 私なんか、両親はもちろん、おじいさんも戦後生まれなんですよ。それでも日本人だから、逃げちゃいけない、責任を取らなくちゃいけない。それは分かるんですけどねえ・・・」。
 「かつての日本帝国が行った「侵略」は、あくまでも日本「帝国」が遂行したものであり、今はその「帝国」がもう消滅してしまったのだから、「平和を希求する」現在のわれわれに戦争責任などあるはずがないと言えたらどれだけ楽だろう。またドイツのように、すべての悪を「ナチス」という「政治組織」(一軍事組織)に負わせてすますことができるものなら、これまたどれだけ楽だろうか。
 しかし、そうはいかないのである。」(池田・井崎他『天皇の戦争責任・再考』) 
 「でも、どうして、「そうはいかない」のでしょうかねえ。・・・もしかして、「一億総懺悔」なんていっちゃったのが始まりだったのでしょうか。
 例えば、バスが暴走して人身事故を起こしたとしたら、当然「運転手の責任だ!」となりますよね。轢かれた人や駆けつけた警察も、事故の目撃者も、みんな、「運転手の責任だ、ヒットラーの責任だ、ナチスの責任だ」、というでしょう。もちろん誰も、バスの乗客の責任だ、とはいいません。ところが乗客が、被害者や警官と一緒に「運転手の責任だ」といわずに、「一億総懺悔」なんていってしまった。「運転手に責任を負わせるのは間違いだ、バスに乗っていた全員の責任だ」、といったようなものですからね。そうすると当然、矛先はこっちに向かいます。「運転手の責任じゃないというのなら、乗客全員が責任をとれ!」となりますよね。
 どうして一億総懺悔なんていったんでしょうかね。」
 「いや、「一億総懺悔」といったのは、皇族ですよ。運転手の弟みたいなものです。」(続く)