帝国の慰安婦:安堵の共同性13

 いや、私なんぞに何もいうことありやしませんよ。堅気の方々には堅気の方々の流儀があるでしょうから。もちろん私らは、ケジメとか責任とかで生きているようなもんですから、そりゃ違いますけどね。何というか、世界が違います。
 「手打ち」ですか。それも誤解されていますね。世間の方々のような談合とか示談とかね、そんな曖昧なものは通用しやしません。手を打つというのは、「これで終わり」ではなく、「これで決まり」ということなんです。双方が「これに決める」の「これ」を、共に間違いなく確定すること、それが手打ちです。
 例えば、ある組が理不尽なことを他の組にしたとします。理不尽とはどういうこか、ですか? 簡単なことですよ。例えば、こっちの無人のシマに隣の組の船が押し寄せ、「もともとは我々のシマだ」といって勝手に上陸したら、主権侵害だ安保だ軍隊だ撃て撃て、と大騒ぎになるでしょう。ましてや、無人島どころか九州や本州に軍隊が侵入して、「殺しまくり犯しまくり奪いまくる」ようなことをすれば、無人島上陸の何倍怒り、何倍恨みまずか? 「理」つまり仁義の「筋」を通すということは、「正当だと言うなら替われ」といわれればただちに替わる覚悟をもって、天に恥じないように身を律することなんです。その理を通さず、一方的な「正当性」を口にしつつ、自分なら何倍も怒る行動を相手にして開き直ること、それは「理不尽」の典型です。(今日は眠いので中断、続く)