帝国の慰安婦:安堵の共同性23

 予想通りながら、首相は「関与しない」と言い張るのみならず、疑う者に激怒し、追求者は及び腰、その上安倍批判はウヨ批判だと援軍まで出動とか。
 9月3日、安倍総理財務省理財局長と面会
 9月4日、安倍、大阪へ。森友学園工事関係者、近畿財務局、大阪航空局が価格交渉の話し合い
 9月5日、森友学園に対し、国土交通省から6200万円の補助金交付決定
 「たまたまドンピシャに関係者と話をしたからといって、たまたまドンピシャに近くに行ったからといって、私を疑うのか! たまたま梨の木の下にいたからといって、たまたま手を上げたからといって、私が梨をとったと疑うのか!」。まあそれはそうですがね。「疑うな」と怒鳴ってはいけません。冠を正さずというのは、「疑うのが普通だ!」「誰でも疑う!」ということをいっているのです。
 閑話ではないですが呆れて休題・・・
 ●(承前)同じようなことばかりいって恐縮なので、ちょっと毛色を変えてみます。といっても、同じことなのですが。
 例えば、台湾に親近感を抱いている人がいて、もちろんどこの国や地域に対してもでも親近感を抱くことは大変結構なことですが、日頃国際友好などには縁の薄い、どころか口を開けば他国のことを嫌悪感を込めてあれこれいったりするのが趣味ではないかと思ってしまうような人がそんなことをいい、不思議に思っていると、だって親日的じゃないか、謝れとか何とかいったりするどころか、日本時代が良かったって人が多いんだあそこは、と決めつけたりし、それはまあ折角日本が去ったかと思えば、たちまち外省軍団がなだれ込んで来て、単純な解放独立という昂揚の歴史を持てないまま、民衆蜂起と徹底弾圧の時代に入ってゆかざるをえなかったであろう人たちからすれば、犬の時代はまだましだったと思い出す時もあるかもしれませんが、思えば複雑な気持ちで落ち着きません。
 と、またややこしい言い方をしてしまいましたが、攫われて奴隷にされても、売られて遊女にされても、捨てるように与えられた食物であっても「自分の手で」口に運ばねばならず、やがて強いられた日常の流れの中で、「進んで」鍬を採った「進んで」客をとったといわれ、足枷は外してあったドアに鍵はかけてなかった、だから「自ら」とどまったのだ、監禁ではなく同棲だ奴隷ではなく家族同然だレイプではなく和姦だなどなどといわれて、もちろん本気で逆らえは殺されるのですが、おとなしく訴えれば示談和解を押し付けられる・・・・・そういった人々のことを、少し考えてきました。(今日はここで睡魔に勝てず。続く)