帝国の慰安婦:安堵の共同性22

 戻れない女たち・・・
 韓国外務省は、少女像の移転が望ましいと表明。どうなるにせよ、打算の行方によって、いずれ示談和解友好のために、トゲは移されたり死んでいったり忘れられたりしてゆくのでしょう。諸行無常
 「七人の侍」といえば日本映画史に輝く黒澤明の名作ですが、あの中に、もう女優の名前も顔も忘れましたが、以前からずっと気になる女性がいます。
 七人の侍たちはみな、薄汚れた武骨者ばかりですが、ひとりだけ、木村功が演じた、まだ前髪の残る若侍がいて、彼と村娘が恋に落ちて一夜の契りを結ぶ、というエピソードがあります。
 気になる女性というのは、その娘ではありません。もちろん二人の恋は、仮初の悲恋に終わる他ないのですが、しかしその出来事は、映画の最後、印象的なエピローグできちんと回収されます。平和が戻り田植え歌が賑やかに響く中、娘は、若侍と目線を交わさずに、忙しく働く男たち女たちの中に混じり、村人たちも何事もなかったかのように娘を受け止めてゆく、そんな村の行く末が暗示されて、そして、残った志村喬加東大介が交わす最後の台詞が来ます。「勝ったのは、あの百姓たちだよ」。
 ところで、もともとあの村を襲った野盗の一団は、一回の襲撃でどこかに去って行くのではありません。目をつけた村の近くに根城を置いて、収穫期毎に襲って来る怖ろしい存在です。だからこそ七人の侍と村人たちは、次回の襲撃から村をただ守ろうというのではなく、野盗軍団に立ち向かい、全滅させようと決戦を挑むのでした。というわけで、村は既に何度も襲われているのですが、野盗軍団が奪ってゆくのは、収穫した米や麦だけでなく、酒や衣類だけでなく、抵抗する村人の命だけではありません。想像通り、娘や妻たちもまた野盗たちに拐われ、根城に連れて行かれて、酷い運命を強いられます。
 大長編の映画の中ほどに、村から根城に偵察に行くエピソードがあって、囚われの女たちが短いカットながら出てきますが、彼女らは、激しく炎を吹く山塞の中に自ら消えてゆきます。おそらく黒澤は、「勝ったのは百姓たちだ」という台詞で映画を終わらせるためには、このシーンが不可欠だと考えたのでしょう。
 もしも、このシーンがなかったならば、野盗たちを全滅させた村人たちは、拐われた妻や娘を求めて、野盗たちの根城に向かうでしょう。あるいは、彼女たちの方から、山を降りて来るでしょう。いずれにしても村人たちは、野盗の女として酷い暮らしを強いられてきた元の妻や娘と再会することになるでしょう。そしてどうなったかは分かりません。自らの意思で親に背いて若侍と契った娘は、何事もなかったかのように村に戻り村も受け入れたのでしたが、攫われて山塞での暮らしを<強制され>、苛酷な運命を呪う他ない娘は、何事もなかったかのように村に戻れ、村もまた受け入れることができたかどうか。いずれにしても、侍たちにはどうすることもできないドラマが続いていったことしょう。そうなると、映画は更にもっと長編になっただけでなく、明るく賑やかな田植えのシーンを背景に、「百姓が勝った」という台詞で終わることはできなかったでしょう。(続く)