武士道について2:士魂と洋魂

 大体、『武士道』の新渡戸も『葉隠』の山本常朝も、一筋縄では捉えられない「ヘンなオジサン」で、とても、「失われた過去の気風(美風)」を紹介するというような単純な話ではありません。
 先ず新渡戸から。
 「和魂洋才」あるいは「士魂商才」という言葉があります。「洋才、商才」の時代となっても、「和魂、士魂」は譲り渡さないという、まさに侍の気概、武士の気風を表す言葉です。ところが新渡戸は、西洋のキリスト教に入信し、西洋の女性と結婚していますから、「武士道は素晴らしい」とかいっても、「士魂大事」の人から見れば、「オジサン何いってんだ」、となるでしょう。
 もちろん、そのことで新渡戸をけなそうというのではありません。大体『武士道』という本のテーマは、武士道ではないのです。
 もちもとあの本は、西洋人から、「われわれ西洋人にとっては宗教が人格教育の核となっているが、日本には人格教育なんてあるのかね」といわれ、カチンと来たかどうかは知りませんが、新渡戸が急いで書いた本の筈です。「日本を馬鹿にしないでください。宗教教育はなくても、人格形成の核になっているものがチャンとあります。西洋人であるあなた方は知らないでしょうが、それは<武士道>なんです」、と彼は、西洋の読者に、英語で訴えようとしたのです。(だから日本語で出版することは全く考えていませんでした)。
 「武士道」とか「サムライ・スピリット」とかを持ち上げる人は(日本人だけではなく、「ラストサムライ」を作ったりする西洋人も含めて)、往々にして、それを、<西洋にはない>高潔な倫理とかいうように持ち上げることが多いのですが、新渡戸は、<西洋にはない>ものを紹介しようとしたのではありません。
 そのことでいえば、同じく英語で日本や東洋の精神文化を紹介して大いに知られたといっても、岡倉天心鈴木大拙とは違います。彼らの本は、いわば<日本独自、東洋独自>のものを西洋に誇るような本で、「どうだ、こういう精神文化は、西洋にはないだろう。西洋人には奥義は分からないだろうが、君らにも分かるようにいえば、こういうことだ」、と(いや、これはちょっと言い過ぎですが)。
 新渡戸の場合は、そうではありません。むしろ、<西洋と同じものが日本にもある>ということを、西洋人にいいたかったのでした。「西洋にはnoblesse oblige(高貴な者のもつべき高徳)というものがあるが、日本にも同じものがある、それが武士道だ」、とも書いています。
 そういうことですから、彼にとって武士道は、自分の「魂の問題」ではなく、いうならば他人事です。注目されていませんが、新渡戸は、将来武士道の精神はキリスト教の中に生かされてゆくだろう、と書いています。多分、正直な気持ちだったでしょう。
 武士道とキリスト教が同じだなんて、やっぱりヘンなおじさんでしょう。(続く)