アジアあるいは義侠について36:全員オシオキよ 

 こう長くなると前の方は全く霧の彼方ですが、あちこち彷徨っているうちに、いつの間にか西郷どんにまで言いがかりをつけていて、ファンの方々には申し訳けありません。何度も書いていますが、言いがかり、揚げ足取り、中学生レベルと承知していますので、お見過ごし頂けば幸いです。
 しかし、本屋の棚に関連本が沢山並び、中には佐高信氏の本まであって、もちろん手にとっていませんが、表紙だけでもやっぱり褒めているようですから、一億総西郷ファンというような状態で、そうなると、せめて蟷螂の壊れ斧でも振り上げないと天の邪鬼が廃ります。といっても、中学生以下の知識の上に勉強する気は毛頭ないのですから、結局言いがかり揚げ足取りと妄想しかありません。
 しかし思うに、結局のところ、みなさま誰しもドラマがお好きだということなのでしょう。確かに「民」に甘んじてというか甘んじさせられて、「己を慎む」というか己を抑えつけられて、平凡に暮らす庶民だけでは、歴史は面白いドラマにはなりません。例えば、佐高氏的に、悪の経営者、悪の政治家を批判しようとする場合にも、経営者や政治家なんてみんな悪ですハイ終り、というのではなくて、マシな経営者、マシな政治家を対比配役した方が分かりやすいドラマになるでしょう。
 というわけで、実際のその後の歴史に徴するまでもなく、大久保らこそ大悪役ですが、時代のドラマを作ろうとすると、「廟堂に立つ」有司は全員オシオキよ、ハイ終りでは視聴率がとれません。「万人の上に位して大政を成す」とか「一命を賭してひとりで外国を従わせる」とか誇大妄想ながら、そういう「至誠の人」が裸足で走ったり、木に登ったり、海に飛び込んだり、何やかやしているうちに結局山の上で討ち死にしてしまう、というようなドラマは確かに面白い。
 まあ、天皇絶対の世の中を作っておきながら、最後は天皇に反逆の弓を引いて死んでしまうような人物がヒーローとして持て囃されるのは、健全なことだというべきなのでしょう。(明日で終わります)